新生意気坐

【ハイロ艦長ほしのあきら】による映画寸評

 

新生意気坐   ほしのあきら

 

 かって池袋に文芸坐という名画座がありました。好きな映画館だったのですが、だいぶ前に閉館しました。土地が転売されてパチンコ屋に‥‥よくある話です。ところが支配人を初めとした従業員の方々が、なんとか映画館の火を消さないで欲しいと新たな所有者に願い出て、三階に映画館が作られました。「新文芸坐」です。今もたくさんの映画好きが訪れる新文芸坐の「新」の意味はそこにあり、それを知っている者も少なくなっていますが、彼らは今も定期的に通っています。

 生意気坐は、文芸坐で映写技師をやっていたマエダ・シゲル氏が作ったハイロの名コーナーの名称です。47年続くハイロの自由応募の基本ラインから外れて、独断で選んだ作家の上映とトークのコーナーでした。

 その名前を何とか活かしたいという思いと、自分が見た映画のことを語りたいという思いが重なって、新生意気坐を始めようと思っています。

 2017年3月で仕事を辞めて、映画館に足を運んでます。八ヶ月で112本見ました。その八割は名画座です。「もう一度見たい!映画」と「見損なってたんだ!映画」と、「えっ?知らないぞ映画」が八割なんです。

 そこには今見出せない何かがあるんです。アートだなんて誰も言わないけれど、映画が消耗品になる前の意地と誇りがあるんです。忘れてはいけない気持ちがあるんです。

 もちろん全てが良いとは言えません。「これはひどい!映画」も含めて名画座はふるさとです。

 自分の独断で○をつけた映画について書いていこうと思います。今のところ、書き手は私ほしのあきら、スナミマコト、マエダ・シゲルですが、どなたが書いても構いません。いや、誰でも書いて下さい。

 

 書かれる映画の条件は

 •  昭和元年(1925年)から平成元年(1988年)までに日本で公開された世界の映画

 •  データ〔題名、あとは自由ですが、できれば制作年、できれば制作会社あるいは配給会社、できれば監督や気になるスタッフ、できれば主演や気になる役者、できれば作品時間、できれば見た場所と見た年月〕

 •  写真もイラストも載せらます。写真はjpgだと処理が楽なので助かります。

 •  文字数自由

 •  文体不問

 

掲載希望の方は以下のアドレスにお送り下さい。できればワードデータで送ってもらえると良いです。(ここで大事なお知らせ。私ほしのあきらはデジタルはメールとワードと写真貼付くらいしかできないので、難しいことは要求しないで下さい。)

 

dodonga2-5-5@hotmail.co.jp ほしのあきら

 

 

 


  

 

2019年04月09日更新

 

 

 

新生意気坐1月〜3月 ほしのあきら

 

(この3ヶ月は余り劇場に通えなかった。予定はしていたが、どうしても変更しなければならないことがあとから入って来て、12本ぐらい涙を飲んだことになる。その内ではハイロの二代代表大房潤一氏の死が大きい。他のところでも書いているが、私が一時ハイロを辞めたあとを引き継いで、たった一人でハイロを守ってくれたのが大房氏だ。彼がいたから私やマエダ・シゲル氏は戻る場所があり、ハイロは約49年もの間存続している。59歳の若さで亡くなった大房君に心からの感謝と追悼)

 

誤字脱字まっぴらごめん。読んで下さっている方々、ありがとうございます。

(そう言えば“蟻が十なら芋虫ゃ二十歳、ミミズは25で嫁に行く”って『男はつらいよ』で覚えて気に入ってるんだけど、ほとんどの人が知らない、覚えてないって、少し悲しい。)あっ5月から元号が変わる!

 

見たぞリスト

• 「いのちぼうにふろう」、○「しろばんば」、△「拾った女」、○「その女を殺せ」、△「恐怖の時間」、○「東京湾」、×「目撃者」、○「まぼろしの市街戦」、△「影の爪」、△「父子草」、△「ある関係」、×「裸の銃弾」、△「その口紅が憎い」、○「こどもしょくどう」(新作)、△「無理心中日本の夏」、○「不良少年」、△「シャレード」、×「サムライマラソン」(新作)、○「彩に愛しき」、

×「乳房よ永遠なれ」、×「ずぶぬれて犬ころ」(新作)、×「怪盗X首のない男」、○「幸せは俺等の願い」

の23本から

 

 

『しろばんば』滝沢英輔 昭和37年 日活(2019/1/4阿佐ケ谷ラピュタ)

 うーん映画が滲みる。曾祖父の妾だったお婆さん(北林谷栄がしっかり嵌まってる)と二人きりで暮らす少年と、美しい叔母さん(芦川いづみがしっかり美しい)や本家の一家そして実の親との何だかややこしい関係‥‥そそられる設定は前から見てみたかった。

 一筋縄ではいかない流れ。特に大きな事件がある訳じゃなく、彼らの彼らにとって当たり前の日常に見入る。そこに不思議な空気が流れ、特になんてことの無い田舎の風景が懐かしく浮かび上がる。お婆さんも本家の姑もお嫁さんも自分の立場で相手に文句を言ったり受け容れたり、つまり関係が画一的ではない。こういう設定だからこうなるだろうという映画的な展開が、その人のその時の状況と気持ちに裏切られて流れていく。少年の実の母(渡辺美佐子の表情が良い)は厳格で冷たく見えるが、だからと言って少年も母もお互い嫌っている訳ではない。少年が憧れる本家のお姉さん(芦川いづみがまぶしい)は学校を出て少年の小学校の先生になるが、同僚の先生と恋仲になり夏休み中に妊娠して二人で引っ越してしまう。貧しい少年を近所の子どもはからかうものの、だからと言って一方的にいじめている訳ではない。

 つまり、かってはどこにでもあった日本人の関係がそのまま放り投げられているのだ。頭で生活するのではなく、身体の中から湧いてくるものに支えられて共同体が作られているのだ。差別があり、お互いが差別を受け容れて自分を守っていく。どんどん裏切られて、しかし違和感どころか素直に環境に立ち向かっていく心情が、快かった。

 

 

『その女を殺せ』リチャード・フライシャー 1952年 アメリカ(2019/1/10シネマヴェーラ渋谷)

  大抵のミステリーは途中で何かが分かって、そこから流れが少しずつ納得していって、最後は大納得になるものだけど、この列車の中はドンデンどんでんまたドンデン!少しオーバーに言えば、息継ぐ暇もないスピーディな展開。もともと映画に騙されやすい正確だけど、こんなに騙される映画も久し振り。つぼを心得た職人監督がシナリオ、撮影、編集と、全てを手のひらの中で転がしているような、しゃくな映画。

 

 

『東京湾 左ききの目撃者』野村芳太郎 昭和37年松竹 

(2019/1/14シネマヴェーラ渋谷)

 いやあ、見て良かった!以前テレビで何気なく見て“ふーん”と思っていたのがこんな傑作だったなんて。いや、テレビを否定してはいけない。テレビに対する自分の姿勢を反省しなくてはアカン。だけども‥‥やっぱり劇場で見てこそなのかなぁ‥‥

 主人公は後輩の若い刑事と西村刑事の娘で、これは紋切り型でマアどうでも良い。二人だけ生き残った戦友が刑事(西村晃)と犯人(玉川伊佐夫)、そのやり取りがやり切れなくてしょうがない。犯人の知恵遅れの奥さんが絡んで、しかし二人は自分の立場から対立を崩さずに悲劇へとひた走る。ラストで列車の中で揉み合う二人は、手錠でつながれたまま死んでしまう。

 

 

『まぼろしの市街戦』フィリップ・ド・ブロカ 1966年 フランス (2019/1/18ユジク阿佐ケ谷)

 ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドが眩しい。演技?ともかく眩しいんだからそれで良い。ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドなんて難しい名前を良く覚えたもんだし、良くいまだに忘れないでいるもんだと我ながら感心する。彼女に再会できただけで満足。色あせない眩しさに加えて、リアルを超えて皮肉たっぷりのストーリーでもうお腹いっぱい。

 時代性を大切にすると映画の寿命は短くなる。あえて時代を捨てた世界だから色は褪せようが無い。ドイツ軍とフランス軍もおもちゃの兵隊さんの如く。兵隊たちはリアルだが、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドが登場すればリアルなんかは消滅してしまう。意味深な門で区切られた病院の世界がひろがってジュヌヴィエーヴ・ビジョルドが小さな町にはびこって、すべてがひとつになってしまう。町の境から先にはジュヌヴィエーヴ・ビジョルドは絶対に行かない。リアルには踏み込まない。そして突然にジュヌヴィエーヴ・ビジョルドは病院に帰っていく。ふっとこちらを振り向いただけで。もちろん我々は病院の中に住み込む。それで良いのだ。だって、やっぱりジュヌヴィエーヴ・ビジョルドだから。

 

 

『不良少年』羽仁進 昭和36年 岩波映画

(2019/2/10シネマヴェーラ渋谷)

 実際の不良少年を起用して作った映画、というそれだけで凄過ぎるとビビって見るのを避けていた。羽仁進むという人は方法論において、他よりも優れた感性の持ち主として羨ましい。小学校の教室にカメラを据えてフィルムを入れずに回し続けて、子どもたちが慣れて来たところでフィルムを回して生き生きとした表情と姿を映し出すことから初まり、全編8ミリで撮影して35ミリにブローアップしたり、そうしなければ描けない、そうしなければ現出しない[幻出する映画]を見せてくれた。それは、最もアンチ権威だ。

 画面にはカメラの背後の人たちの足跡がある。優れた絵画は画家の足跡だらけだ。ここに足跡は確かにあるのだが、しかしよく見えない。こんな足跡もあるのだ。きっとそれは映画人の足跡ではなく、[にんげん]として関係を結ぼうとした足跡なのだ。内容とか面白いツマラナイではなく、[にんげん]の誠意の営みを見た気がする。

 

 

『彩に愛しき』宇野重吉 昭和31年 民芸

(2019/3/22シネマヴェーラ渋谷)

 精神病に蝕まれた妻の田中絹代が凄いです。まるで映画的ではないんです。ちょっとした仕草や表情が“うん?”なんです。特に目が“うん?”と見える瞬間の恐さは心に積み重なるんです。病院に隔離されてからも、普段のように見える時もあれば“うん?”の時もあるという繰り返しに、文学者の夫(信欣三って凄い役者だったんだと)が悩み、そんな家族を周囲の人たちが暖かく包み込むという盛り上がりの無い話しが盛り上がっていくんです。

 新藤兼人の脚本も相変わらず良いんだけど、夫と周りの人々の分かりやすい困惑を、妻の“うん?”が分かりにくくしていくという、凄みに眼が離せなくなったんです。奥さんはきっとこのまま退院できないんだろうな、旦那さんと子どもたちはどこで覚悟できるのかな、そんな、でも絶望ではなくて生きるというエロスを感じさせるラストだったんです。

 ちなみに、「愛しき」と書いて「かなしき」と読ませるタイトルです。これ、深いんだとエンドマークで思いました。

 

 

『幸せは俺等の願い』宇野重吉 昭和32年 日活

(2019/3/27シネマヴェーラ渋谷)

 続けて新藤兼人脚本とのコンビ作。題名通りと言えばそれまでの内容だけど、冒頭からもうすぐ結婚するフランキー堺と左幸子がどうでも良い幸せ感を発散するが、浮浪児のような兄弟4人が同居することになると題名が突然深いものになる。話しそのものは大して複雑でも長くもない。そのかわりひとつひとつのエピソードをじーくりと描く。描くと言うよりも見詰める、じっと見続けるという言い方が相応しい。そこで題名の深さがさらに深くなる。

 バラバラにもらわれていった兄弟が少しもかわいそうな素振りを見せず、しかし再び明るい若夫婦の許に戻って来て、新婚で4人の子持ちになった二人との新生活に題名はさらにさらに深くなる。フランキーお父さんと5人で風呂に向かうは徐々に徐々に彼らから遠ざかっていくラストシーン。あっ!これはイタリアン・ネオ・リアリズムで見た、あのの世界だ。

 宇野重吉って役者としてもその癖のある立ち居振る舞いが好きだったが、監督としても好きになった。この二年後に「硫黄島」という戦闘シーンの無い反戦映画を作っていると言う。ぜひ拝見したいと思った春の夕暮れだった。

 

 

• 無駄話(その3)

 年金暮らしでの映画館通いも大変で、体力的にも大変です。けっこう増えて来た東京近辺の名画座で、やっぱり行きつけ名画座が固まって来ています。

いくつかの映画館を個人的なデータで比較してみました。

料金と所用時間と、それぞれの居心地の良さと悪さを考えてみました。

 

 • シネマヴェーラ渋谷→友の会で800円。9ポイントで1回無料。                                  だけど、それを言ってくれないので忘れることがある。

        =1本720円

        徒歩を含めて約60分、往復600円

        計1回1320円

        トイレが狭いので、下の階のユーロスペースを借り

                            られる。ロビーも狭いので居場所が無い。喫煙所は

         徒歩二分の路上に近所のお店が用意してくれてい

        る通りがある。ありがとう。その辺りには名曲喫茶

          「ライオン」(昭元年からある!!)。間隔をおいて

        二本見る時はここでゆっくり煙草とコーヒー。さら

        に、近くには「とりかつ」と「ムルギー」と「イ

        デイラ」と「麗卿」と50年以上やっている店、

        つまり私の青春がまだあるのが自慢。

 •  神保町シネマ→友の会は無し。5回で1回招待券=1本937円

       徒歩を含めて約75分、乗換え無しで往復1000円

       計1回1937円

       ロビー狭くて、神保町近辺は路上喫煙ダメできびしい。

       近くのドトールの30円引き券が置いてあるのでそこへ

       急ぐか帰るまで我慢!目の前に古くからの「キッチンく

       ろんぼ」があるが、昔ほど魅力は無い。町はさすが神保

       町で歩くのが楽しい。

 •  新文芸坐→友の会はシルバー料金と同じだが、8ポイントで招待券

          二本立てで頑張ってくれている=1本489円

       徒歩を含めて約80分、山手線に乗換え往復940円

       計1本1429円

     大きいスクリーンはどこで見ても見やすく、座席は背もたれ

     がしっかりしていて、寝るのも最適。途中で出たい時は、後

     方の出入り口がエントランス付きで退屈で帰りたい時は気が

     楽。大きな喫煙スペースがあったけど、つい撤去され、途中

     外出も出来ないので結構地獄。ロビーで軽食や飲み物を安く

     販売しているのが救い。スタッフがゴミを集めにくるのも昔

     ながらの映画館。映画館としての自己表現がはっきりしてる。

     ただ、券売機は受付順に入るという煩わしさは無くて良いん

     だけれど、嫌だ。

 •  ラピュタ阿佐ケ谷→友の会で800円。

                               5ポイントで1回招待券でかなり得だけど、この招待                                 券は1ヶ月間限定なのを忘れて使えなくしてしまった                                 ことがある。上手く予定を

           組まないと=1本667円

           徒歩を含めて約85分、山手線から総武線に乗換え

           てめんどくさい往復1040円

         計1本1707円

         ロビーは1階に椅子とテーブルがいくつもあるけど、

         けっこう埋まっている。コーヒーも売っている。持

         ち込みは食べるのに気が引ける。外の木のベンチは

         余り座る人が居無いので私の特等席。庭にはまだ喫

         煙所があり、これは頑張って欲しい。トイレは二カ

         所あるけど各一人用なので駅を使う。シネマヴェー

         ラとラピュタは受付が素人っぽいお嬢さん。50人

         ほどの小ささなのでアナウンスは地声で毎回人の匂

         いが。しかもお嬢さんは一緒に見てるんじゃないか

         と思う(確かめてないけど)。さらに受付がきちんと

         番号順。10番目が6番目より早くは入れない。Fiaf

         =国立映画アーカイブ並だけど、お嬢さんがやるか

         ら誰も文句いわない。ここもしっかり人間くさい自

         己表現、だらけ!

 •  早稲田松竹→一度閉館されたのを市民が再生させたことは余り伝わ                      っていない。

     友の会はないけどシルバーは二本立てで900円。

     券売機だけど係がすぐ飛んで来て説明態勢に入るから我慢

     しよう。

     徒歩を含めて約80分、山手線に乗換え往復940円

     計1本1390円

     作品選びの根拠が余り合わないので行く回数は少ないが、

     表現意図が分かる劇場。新文芸坐と早稲田松竹は前の椅子

     との間隔が広いので座りやすいし動きやすい。喫煙所は劇

     場前にあるけど休憩中のみで、開映すると係がしまう。け

     っこう周りと闘っているんだろう。途中退場の券は欲しい

     人に係が渡す。売店が無くて、隣にコンビニがあるからか、

     煙草以外でもけっこう出て行く。このシステムが無かった

     ら狭いロビーはけっこうごった返すだろう。ここの係は働

     く姿が目にりやすいから気が抜けない。 

 

ということで、もちろん名画座は他でやらない映画を見せるという自己表現が第一だけど、どうやってその時間を感じさせるか、その空間をどう使うかも含めての表現だから、それを味わうのも楽しみな訳です。家庭の居間とは違う、シネコンとは違う時間と空間を楽しみに、また今日も出かけます。今日はラピュタ阿佐ケ谷の錦之助特集だ!   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

2019年01月06日更新

 

 

 

新生意気坐10月〜12月 ほしのあきら

 

(やっと別の人が書いてくれた。スナミマコト氏。フィルムに直接形を創ることで他の追従を許さない人。真面目に映画に向き合う人。これからもお願いします。)

 年内に書き上げるつもりが、やっぱり年越し。しかも、誤字脱字まっぴらごめん。読んで下さっている方々、今年もよろしくお願いします。

 

見たリスト

• 「湖の琴」、×「山麓」、×「続飛車角」、○「アンナ・カレーニナ」(新作)、

×「ど根性物語 銭の踊り」、△「雲右衛門とその妻」、×「武士道残酷物語」、

• 「続花と龍 洞海湾の血斗」、◎「カメラを止めるな」(新作)、△「雲の上団五郎一座」、○「駅馬車」、×「アトランタ号」、×「ツナグ」(平成作)、○「駆け込み女と駆け出し男」(平成作)、×××「ハナ子さん」、△「サンダカン八番館 望郷」、○「雁」、○「お願い、静かに」(新作)、△「こんな風景」(新作)、○「チプカ」(新作)、◎「人生劇場 新飛車角」、×××「悪坊主侠客伝」、×「関東流れ者」、○「女渡世人 おたの申します」、◎「博奕打ち 総長賭博」、「博奕打ち 命札」、△「祇園の暗殺者」、△「牢獄」、○「道化師の夜」、△「風の中の子ども」、○「お早う」、○「日本女侠伝 侠客芸者」、○「任侠列伝 男」、○「500年の航海」(制作期間35年のしんさく!!)、○「生まれては見たけれど」、×××「広い天」、○「ふけよ春風」

                          の37本から

 

 

『武士道残酷物語』今井正 昭和38年東映京都(2018/10/22阿佐ケ谷ラピュタ)

 今井正と中村錦之助の黄金コンビが組み、戦国時代から現代サラリーマンまで、七つのエピソードで「忠義」の持つ悲惨さを描き、ベルリン映画祭で金熊賞受賞!という凄い映画を、見たい見たいと55年、やっと見た!‥‥見たいだけにしておきゃ良かった。

 だって、最初にサラリーマン錦之助(格好悪い錦ちゃんは見たくなかったよぉ)の恋人が自殺未遂で病院へ。“私の先祖の被虐の歴史の血が私にも流れてる”なんて言って、ご先祖達の忌まわしい話しへ。しかも出てくる錦ちゃん皆んなが皆んな、“あっこれで虐められるな”って分かるから驚かねえぜ。痛くもねえぜ。悲しくなんてあるもんかい。自慢じゃねえが、こちとらベルリンの人たちよりも武士道の残酷さには麻痺してるんでい!おいベルリン、七変化たってこちとらどれもどっかで見た衣裳なんでい!サラリーマンは別だけど(しっかし似合わないなぁ)‥‥公開の15歳の時、いやせめて10代でお会いするべきでした。

 

 

『続花と龍 洞海湾の血斗』山下耕作 昭和41年 東映京都(2018/10/22阿佐ケ谷ラピュタ)

 同じ日に見たんです。錦ちゃん。カッコいい!この泥臭さい動きと表情は何をするか分からない。分かっているお馴染みのストーリーが分からなさでどんどん膨らんでいく。錦之助の素早い表情の変化は情念に向かっていく。今の役者が頑張っても到達できない「くさい」演技だ。動きも速い。ちょっとした動きが説明を吹き飛ばす。だからどんどんはまっていく。名演技ってこういうことを言うんだなぁと感心する。監督山下もクールだから逆に玉井金五郎とおマン(しかし何でこんな笑えるネーミングなんだ?)の夫婦の「その時」に引き込まれる。ラストの洞海湾なんてちっぽけな何の変哲もない港。その血斗は錦ちゃんボロボロ。斬られまくるだけ。もうやめろ!って叫びたくなるほど。怒って相手の刀奪って斬れ!って泣きたくなる。度胸と根性‥‥いや、ロマンだ。

 

 

『ハナ子さん』マキノ正博 昭和18年 東宝(2018/11/10シネマヴェーラ渋谷)

  冒頭に「撃ちてし止まむ」の大きな文字。戦意高揚を目的とした国策ミュージカル。しかしこの映画を見ている限り、暗さも重さも無関係で、日本の銃後は何の問題もない。お隣同士が助け合って、贅沢をしないで、出征する兵士は明るく送り出して、運動で身体を鍛えて、張り切って生活をするのだ。と明るく楽しく元気づけようとする。主題歌の「お使いは自転車に乗って」はこの5年後に生まれた私も口遊んだことがあるからヒットしたのだろう。

 歴史的には既に大都市では空襲があり、山本五十六元帥は戦士し、アッツ島では玉砕もしている。だから、この映画を見て元気づけられた国民は確かにいたんだと思う。何の問題も訴えてこないだけに、凄い問題を含んだ映画だ。

 ハナ子さん(轟由起子)は屈託なく元気で五郎さん(灰田勝彦)との結婚も問題無く許されて‥‥ドラマにならず幸せそのもの。妊娠して男の子か女の子かと気をもむけど、健康な男児を生んで皆んなにバンザイ、バンザイと祝福されて‥‥女の子だったら周りはどうだったんだろう?女の子を産んだ女性が見たらどう思うんだろうとか‥‥幸せそのもの。バケツ・リレーの訓練も元気で明るく、空襲があっても近所に被害無し。

 で、ついに五郎さんに召集令状が来るのだが、ここからがマキノミュージカルの真骨頂。突然、ホントの突然に公園でバレェが始まる。どこの誰だか知らないけれど若い姉ちゃん達のレビュが真俯瞰の画面を中心に始まる。終わると何事もなかったように五郎さんは“君だと思って戦地に持っていくよ”とおカメのお面を出す。ハナ子さん“私あなたに何かしてあげたいの、何が良い?”五郎さん“何もいらないよ”ハナ子さん“ううん!何かしてあげたい!”笑ってハナ子さんはでんぐり返しを、し‥し‥したんです!ホントなんです!嘘じゃありません!この目で確かに見たんです!信じて下さい!!(まさに刑事映画のセリフそのまんまの感想)

 大島渚監督の「帰って来たヨッパライ」デデングリ返ししながらのセリフがあった。同胞マエダ・シゲル君(生意気坐の命名者)は出張先ででんぐり返し続けて自宅に戻る「でんぐり返る」という作品を作った。私も拙作「ここにもコーモリ」で男に愛想を尽かした女がでんぐり返ってベッドを離れた。今更映画でのでんぐり返しに驚かないはずが、このシチュエーションで???と。しかも映画はこれ以上進展しない。だっておカメの面を後頭に付けたハナ子さんはススキの原を笑って走っていっちゃったんだから。えー!なんなんだ?という謎を残して走っていっちゃったハナ子さん、あなたは一対何人いたの。

 

 

『人生劇場 新飛車角』沢島忠 昭和39年 東映(2018/11/19シネマヴェーラ渋谷)

 東京オリンピックの年、戦後日本の一区切りのこの年に、何でこんな映画が生まれるのか?名作人生劇場とも飛車角ともおとよとも関係ない。戦後間もない日本人の生き様と死に様‥‥チャンバラ映画の名手沢島監督が起死回生で大ヒットさせた「人生劇場」の続編がイマイチで、さらに挑んだ異色作。だいたい「新‥‥」は大したこと無いもの。浅草名画座が廃館する前に、何かの同時上映で期待も何もせずに見て、驚いて喜んで席から立ち上がってしまった映画とやっと再会した。どうしようもない悲劇を書かせたら右に出る者はいない笠原和夫の脚本も光る。

 初見の時はぼーっと見てしまっていた前半部に、戦後間もない社会で生き抜くこととやくざ社会で仁義が廃れていくことの相関が描かれ、悪役佐藤慶も含めた登場人物全員が必死に生きようとする権利を見せていた。

 スピーディな演出で知られた沢島監督ならでは、主要人物の登場の仕方がキャラクターを浮かび上がらせて目を見張らせる。これでテンポが生まれる。しかもエピソードの見せ方と閉じ方が見事で、凡庸な監督なら二時間以上かけないと描けないだろう内容を、まさに畳み掛けるように積み重ねていく。鶴田浩二を心で愛しながらも身体は西村晃を求めてしまう佐久間良子の、過去と今の狭間を生きている表情が何とも愛おしい。それぞれの人物にさまざまな自分を投影できる、愛の物語だ。鶴田を助ける志村喬の存在感も凄い。

 

 

『悪坊主侠客伝』大西秀明 昭和39年 東映(2018/11/19シネマヴェーラ渋谷)

 いやあ、何を見たんだろう?‥‥大西秀明と言う人は先にも後にも、この1本しか知らないが、バランス感覚が壊れているのか、ステレオタイプの話しに自らの主張を強引に盛り込もうと抗ったのか?

 元僧侶で自分の目を斬ったやくざを追いかける近衛十四郎はともかくうるさい。細かいことを気にし過ぎる。話しを良く説明してくれるだけでなく動きも表情もうるさくて、結果映画としての凄みが無い。静と動とか緩急が皆無だから錦ちゃんとはまるで違って、緊迫感が出ない。せっかく目が見えないのに居合い切りが凄いんだから、監督が抑えられ無かったのか。スター第一主義の悪癖か、ともかく退屈。退屈過ぎて眠くもならない。

 ところが!ですよ。中途半端な御都合主義と無理矢理引っ張って時間を稼ごう主義にじらされてやっと!でもあっさりと復讐の相手の目を斬るのだが、やくざは苦しみ、まだ苦しみ、池の中へ入っていき悶え苦しみ‥‥これは業のドロドロした世界の具現化を狙ったのか!という長さ。異様。大西監督ってもしかしたらアングラ?

 そして途中で知り合った子ども(何でこんなに可愛くない子を使ったんかね!)を助けるために宿敵死神(名前が!名前が!東千代之助かわいそう)と対決するクライマックスへ。近衛を止める宿屋の女将(子どもの頃ファンだった千原しのぶだ!)のセリフが意図的に大きい効果音で聞こえない!!宿敵死神(名前が!名前が!)を倒した後、娘(何でそこにいたかは忘れた)と子どもと一緒に江戸へ行こうと言う近衛と娘の引いた画面の、そのカメラ前に突然強引に子どもがフレーム・インしてで何か言うんだけど、聞こえない!アップだから口の動きは見えるけど、それなり長いセリフ。でかい音楽で聞こえなくしている!!おい、大西監督って誰や?

「新飛車角」同様に終わるや否や席を立ってしまった。いま何を見たの?!

 オリンピックは新幹線を生み、高速道路が都内を覆い、古い建物は次々に壊されていく。年末だって色々捨てて、新しい年にはこうしようなどと考えるもの。[戦後の一区切り]は、何かをしなきゃいけないんだと、作り手達に何かを迫っていたのだろうか。高二の私は呑気にオリンピックの重量挙げをただただ惰性で見ていただけの昭和39年に。

 

 

『女渡世人 おたの申します』山下耕作 昭和46年 東映(2018/11/28シネマヴェーラ渋谷)

 「総長賭博」とこの二本が監督山下耕作と脚本笠原和夫のコラボの最高傑作で間違いないです。任侠路線後期最大風速の傑作。そして脂の乗り切った藤純子様の最高峰。シリーズ二本目にしてこれが最終作という、嗚呼‥‥世が世ならば連作されていっただろうと思うんですが、この二年後に笠原和夫は深作欣二と組んで「仁義無き戦い」を送り出すんで、任侠路線の後期最大風速で、まさに滅びの美学の象徴です。

 映画は真っ当に純子様の仕切る賭場から初まり、いざこざから殺された男(林彰太郎が出番は少ないが最も重要な役で生きている‥死んでるけど)の負け分の取り立てに義理から純子様は岡山へ。古い船宿を守る父島田省吾と目の見えない母三益愛子。息子の喧嘩相手の純子様を暖かく迎え入れる島田省吾と、何も知らずに息子の嫁だと信じる三益愛子この三人の人情の絡みに立ちふさがるのが金子信夫だけなら大したことは無い‥‥息子の博奕の負け分の清算に土地家屋を型に借金した島田。これもよくある‥‥船宿の裏で亭主が出稼ぎに行ったおかみさん達が住む長屋を立ち退けとやくざ達が来るが、純子様が一蹴する胸の好くシーン。これも良くある‥‥はずが、女たちは純子様を冷たく睨みつける。それでも純子様は皆んなのために悪に立ち向かう。長屋に火がつけられ、逃げ後れた赤ん坊を必死に助け出しても‥‥女たちは心を開かず冷たい視線。

 いやこれは辛いよ。男文太が“姉さんは日陰に咲く花だ”と慰めたって焼け石に水。味方だと思っていた待田京介はワルだし、島田省吾がなぶり殺されるシーンは辛いの一言。忘れた頃に大阪の親分遠藤辰雄が向こうぶちに回るし。その上、指を詰めさせられて、ついにドスを手に‥‥そのとき、三益母さんはじつは純子様が息子の敵だと知っていて‥‥憎いという自分の心が地獄に向かう[人情]を“この人は嫁だ”と言い聞かせる[義理]で抑えて‥‥嗚呼!しかないシーン。“このまま親子として暮らして欲しい”と!‥‥幼くして親を亡くした上州小政は!それでも女純子は修羅場へ向かう!

 愛する文太も死に、ボロボロになってお縄をちょうだいした女純子に三益母様は目も合わせなければ口もきかず。役人に引き立てられる道行きにおかみさんたちは‥‥冷たく睨むだけ‥‥見守るしか無いその時!後から“政子!政子!”と叫ぶ三益母様の声。思わず振り返って“おっかさん!”こんなところで涙がどっと吹き出すんですよ何回見ても。もう、ズルいの極みです!

 心の中で親子になった。そして役人に引き立てられて行く上州小政。続編は無くて良かったのかも知れない。

 

 

『博奕打ち 総長賭博』山下耕作 昭和43年 東映(2018/12/2シネマヴェーラ渋谷)

 初めて見たのは21歳。噂を聞いて飯塚君と二人で文芸坐の最終回。二人で席を立てなくなった。掃除のおばさんに急き立てられて我に帰ったこと、彼も覚えていた。20回近く見ていて、未だに女房桜町弘子が自分の義理から自殺するシーンは涙が込み上げてくる。それぞれが義理という主体性を貫き通そうとすると条理は不条理となり、どうしようもない悲劇=不条理を呼ぶんだと教えられ、俺はこんな風に生きない、もっといい加減に生きる、と強く思った。 

 今だから白状するけど、私は「そうちょうとばく」を「早朝賭博」だと思って見に行きました。

 

 

『道化師の夜』イングマル・ベルイマン 1953年 スウェーデン(2018/12/9 fiaf) 

 このところ[字幕]に感情移入がしづらくなって、セリフを上回る映像がないとなかなか心が動かない。でもそれは映画なんだから、本来そうなんだと。

 おちぶれたサーカス団の団長の若い愛人アンナの艶かしい魅力が、全てを輝かせる。

 疲れた中年団長も、食べるものに困って一座の熊を殺すのも、家に戻りたい彼を拒む別れた妻と息子も、アンナを誘惑する色男も、弄ばれただけだと分かっても泣くしか無いアンナ自身も、アンナのために色男に殴り掛かって反対にボロボロになる団長も、感情を排したベルイマンの辛辣なカメラに曝されながら、アンナの溢れるようなエロスが際立たせる。やっぱり今まで通り旅をするしか無いサーカス団の遠いシルエットに、よし!生きるぞと繫がった夜だった。

 

 

『お早う』小津安二郎 昭和34年 松竹大船(2018/12/11神保町シネマ)

  主人公とおんなじ11歳の時に母に連れられて見に行った。小津作品などとは知らず(いや、小津安二郎なんて名前は知らず)感激した記憶だけがずっとあり、約60年ぶりに再会。

 夫婦に二人の男の子、父の妹という家族構成は名作「麥秋」と同じ。夫婦が笠智衆と三宅邦子というのも同じということを改めて知った。ついでにサイレント期の名作「生まれては見たけれど」も男の子二人兄弟で弟が兄を真似たり兄の気持ちをアクションで代弁するのも同じ。(弟のリアクションが当時も今も可愛くて好き)

 話しが進むに連れて、同年齢の子どもがテレビを欲しがって、つまらないことをしゃべり過ぎるという父に反抗して何も話さなくなると言う設定に共感した60年前が蘇る。

 “お早う”とか“今日はいい天気ですね”とか、大人だってどうでも良いことばっかりしゃべってるという批判は、しかしどうでも良い言葉が潤滑油になっていると同時に、隣近所の諍いを本音を言わずに何とかしのいでいく際どくて危ういバランス感覚を育んでいる日本的な関係にまで言及していることは知らなかった。お互いに好意を持っている佐田啓司と久我美子が“きれいな雲だ”“ホント、きれいな雲ですね”というどうでも良い言葉の中に秘めている気持ちが、あー日本人ってこうだったよなと、何故か過去形で見えてきた。

 

 

『日本女侠伝 侠客芸者』山下耕作 昭和44年 東映(2018/12/14シネマヴェーラ渋谷)

 確か5本は作られているシリーズだけど、この1本以外はがっかりの連続だった記憶がある。それだけに、この1本が光っている。惚れた健さんが一人斬り込むという外部との闘いと、健さんを慕いながら連獅子を踊る純子の心の中の闘いがカット・バックされていく。困ったときのカット・バックと言ってきたが、その安易さが映画技法の歴史の中で、まさに映画だけのダイナミックを生んで、惹き付ける。[カット・バックは諸刃の剣]を見事に乗り越える勇気にひたすら拍手。

 

 

『任侠列伝 男』山下耕作 昭和46年 東映(2018/12/14シネマヴェーラ渋谷)

 これも山下—笠原コンビの傑作。だけでなく、二人のコラボの最後の作品。なんだけどタイトルが良くない。時々現れるオールスターものの中に埋もれてしまい、“あれ?これみたっけ‥見たよなぁ‥”になっちゃう。中身は濃い。

 弟分の菅原謙次と桜町弘子のためにムショに入った男鶴田。シャバへ出てくると一家は叔父貴に乗っ取られかけている。そこから代紋のため、皆んなのため、苦労を重ねる。やっぱり“どっかで見たよなぁ”のオンパレードだが、もう東映任侠映画は様式の美学。飽きられても続ければ歌舞伎のように伝統様式になるだろうに、哀しい哉[商品]それも[消耗品]。結果では無く、これは二人の最後のと思いながら作った遺書。これまでの歴史を背負って描かれた洋式美。せっかく九州から駆けつけた無口な健さんは死んでしまう。健さんも背負った男鶴田はどこへ‥‥

 因に。山下耕作ホントに最後の任侠映画は「日本任侠道 激突編」。もう「激突」なんてださい文字使うな!だし、「編」ってなんだ「編」って!という会社の力入ってないタイトル。しかし、男山下は仁義の作法にいちいち説明を入れて、我々が映画を通して覚えた言葉と所作を復習させ、初めて見る人に名画座で過去作を見るための手ほどきをさせる。これ、涙。ラストは「任侠」の掛け軸を背に健さんがよろめく‥‥さようなら任侠映画。

 

 

『生まれては見たけれど』小津安二郎 昭和7年 松竹蒲田((2018/12/23神保町シネマ)

 (松竹撮影所は昭和10年に蒲田から大船へ移転しました。因に東京と京都はそれぞれずっと存在してました。)

 学生時代から「サイレント時代の小津の傑作」と聞いてきて、見たい!と恐い!が同居(分かります?)していた作品を遂に見てしまった。しかもピアノ生伴奏付きで。

 すごい!と小躍りはしなかったけど。ナルホドさすがと言う作品。小津サイレントは数本しか見ていないけど、内容も見せ方も色々試みて自分の色を探している感じが興味あった中で、これは人間とその関係(特に親子関係)への目の向け方が戦後小津に繫がっていて、原点と言えるのだろう。子どもたちが妙に可愛くなくて、気取ってなくて、そこらにいるガキ感がいい。で芸名が突貫小僧とは爆弾小僧、この映画には出ていないけどアメリカ小僧なんてのもいて、当時の松竹はこまっしゃくれて無い子役の宝庫だったよう。変顔得意の兄弟が転校して苦難の笑いの中、尊大な父(斎藤達雄)が実は会社で変顔で自分のポジションを作っていたことを知り(これが9ミリ半のホームムービー)、親父像崩壊の危機へ。そこからしみじみとした涙へ。いや小津さんって子どもで笑わせるのが(ワンパターンだけど)上手いんですよね。

 

 やっと見たゾの感動で、次に清水宏の「母のおもかげ」(子役が根上淳!継母が憧れの淡島千景!)を見る体力が無くなり帰途へ‥‥でも見たい!気持ちが続けば、どこかで見られる!と言う名画座巡りで得た教訓が、明日へ私を導いてくれているのです。

 

 

『吹けよ春風』谷口千吉 昭和28年 東宝(2018/12/26阿佐ケ谷ラピュタ)

 戦後8年、私は5歳。こんな平和ボケしたような題名でアクションの谷口千吉と堅物三船敏郎が?

 流しのタクシー運転手三船がバックミラー越しに覗き見る人生の断片のエピソード集。恋人小泉博に腹を立てながらキスされて機嫌を直しホテルに入る岡田茉莉子(若い!)母親と喧嘩して家出した青山京子は行くところが無いのに三船の親切を断って夜の闇へ。よった小林桂樹は車の屋根へよじ上り、いなくなったと青ざめて探すと座席の下で高イビキ。ピストル片手の強盗三國連太郎はちょっと期待した三船アクションの無いままに、いざというところで逃げてしまい。

 そうだ、ここに春風は吹いていないのだ。反語だ。刑務所から出所した父山村聰は子どものために復員軍人を装って軍服に。それでも自分を受け容れてくれるだろうかと心配でイライラ。家の前で降ろした三船は忘れ物に気づいてソッと家を覗くと、父親の抱きつく子どもたちの笑顔。

 そうだ春風が吹けという願望だ。その後、家出青山とその母が偶然三船タクシーを見つけて(なんせ黄色いタクシーなんですぐ分かると言う伏線がありました)笑顔でお礼を。

 やっと春風は吹きました。さすが脚本黒澤明!でした。三船運ちゃんに生活感はゼロだけど、その方が「野良犬」や「酔いどれ天使」と接点があるようで‥‥?良いでしょ。

 という年末最後の春風映画でした。来年も見るぞ!

 

 

 

 

 

 

  

 

2018年12月30日更新

 

 

 

新生意気坐 2018年12月最後の更新は、スナミマコト氏。お初の映画寸評参加となります。お初にお目にかかります。よろしゅうおたのもうします。 

 

 

 

2018年11月17日(土)渋谷シネマヴェーラ スナミマコト

「暴力街」(東映/1963年/白黒)監督:小林恒夫 ◯

 

 渋谷のシネマヴェーラで「滅びの美学」と題された、任侠映画の特集があり、久しぶりに映画館で任侠映画を観た。その中で、観たいと思っていた「暴力街」があった。今年の夏、故郷に帰省していたとき、ちょうど県北の美術館で「高倉健 追悼展」があったので、家族で見に出かけた。そこで展示されていた写真でこの「暴力街」を知ってから、はじめて観る事が出来たのだ。1963年作のこの作品は、何と、のちに東映任侠映画シリーズの先駆けと云われるようになる「人生劇場(沢島忠 監督作)」の公開一週間前の公開だったそうで、実質的には「暴力街」も先駆けの作品なのだ。でも「人生劇場」を観てしまったら、「暴力街」の印象は薄くなるかな。だけど、任侠映画の高倉健像はすでにこの作品にあり、観ないでいるのはもったいない作品だと思う。

 

 映画は冒頭、ある組どうしの「手打式」の模様から始まる。その中で、香取組の代貸の健さん、香取組の先代はおらず、娘の三田佳子が跡を継いでいること、健さんはかつて相手方倉田組の幹部を殺したこと、その息子である千葉真一は健さんを仇に思っている事、香取組の経済状況は苦しいこと、などがわかり物語の情景が見えてくる。寄せ場にいた健さんは、香取組の経緯を知らず、その間、自分なりになんとかやってきた弟分の江原真二郎とは、徐々に対立していく。倉田組も地域の体育館建設の大工事の確約のため政治家と癒着し、香取組を追い込んで行く。跡目についた三田は家業のことなんか嫌だったが、健さんは三田を支えて香取組を再興しようとしていた。それぞれの立場や行動から、ラストの悲劇に向かっていくのだが、割と淡々とした画面と、丁寧に描かれる描写(説明的なとこもあったかな)、そして少し冷たく乾いたリアリズムの感触を覚えた。最後にカタルシスが爆発するのではなく、悲惨に、湿気った花火のように燻って消えていく健さんが、良かった。千葉真一も良かった。江原真二郎は根は良いやつかもしれないが、やっぱヒドい。ただ三田佳子がイマイチだったな。綺麗なんだけど、終始心ここに有らずといった印象だった。それは本当にそうだったのかもしれないし、リアリズムな演出も関係しているのかも。確かに、いわゆるヒロインという人物像ではなく、妙に生々しく、現実的な存在だった。それは同時にこの作品の特色でもあるのだろう。この監督は文芸作品なんかだといいのかもなぁと思ったりした。けれども任侠映画が好きな人で、いろいろ観た人には、ぜひ観てほしいと思う。

 

 作品中、印象に残ったシーンがある。喫茶店で健さんと三田佳子が話をしていた時、店内で音楽がかかり、ダンスが始まる。うるさいから外に出ようと三田を連れ、外を歩いていると、突然「俺が踊ります」と健さんが言い、三田の唄に合わせて舞踊を舞う。槍を振りかざすような踊りだった。ラストの殴り込みの時、香取組の大切なものであろう槍を取り、槍の先をはずし、布でぐるぐるに巻いて、それを「道具」としていた。文章で書くと、何だかわざとらしい対比だなとか、説明的だな、なんて思うかもしれないが、健さんが演じると不思議と収まる。それを言葉にするのは難しいのだけれど、身体が背負い、発するものなのだろう。「花札渡世」で梅宮辰夫が「古い人間」を演じられてない(と、感じたのだが、決して悪い意味ではなく、梅宮辰夫には梅宮の身体が発するものがあるのだ)ように、健さんを観ると「古い人間」が現れるのだ。そうして段々、いったい「古い」とはどういうことなんだろうと、考えるようになった。

 

 新しい言葉が生まれると、それまで使われていた言葉は消える。統合されるといってもいい。言語に詳しいわけではないが、昔の言葉には、感動したり感情の動きを伝える言葉が沢山あったようだ。それらは、その地域・民族の風習や儀式に起因していることが多く、他所の人には通じない、あるいは必要のない言葉かもしれない。だから細かな違いは省略し、「嬉しい」とか「悲しい」が残り、「どんなふうに」の部分は消えていく。その時消えてしまった感情を、再び感じる事はできるのだろうか。「古い」「新しい」というのは、時間的な経過を表す言葉であって、本来、それ自体が「良い」とか「悪い」を表す言葉ではない。にもかかわらず、僕らは無意識に「古い」と「新しい」を対立させてはいないだろうか。100年前の映画に、現代でも感動している人は少なからずいる。では、これから先の100年後はどうだろう。「滅びの美学」がそこにはあるだろうか。それとも人間が滅んでいるのかな。笑

 

 

 

 


  

 

2018年11月05日更新

 

 

 

新生意気坐 7月〜9月

 

 このコーナーを始めたのは、もともと古い映画をたくさん見たい、という思いとハイロのホーム・ページに『生意気坐』という気に入った名称の空き家があったので、ここを使って感想文を何人かで書いていくと面白いかな?という思いつき。あんまり誰も書いてくれないけど‥

 だからもともとは余り知られていない(と思える)発見した映画について生意気だけど書こう!と言うこと。知れ渡っている名作は書かなくても良いということ。だった。

 気がつけば名作も書いている。逆に歴史的に名作と言われている映画でつまらないものは少なくないから、それこそ生意気に書いた方が良いと思い直した。

もうひとつ。やっぱり見た映画の全てを書いた方がすっきりするので、頭に「見たリスト」を載せて、◎、○、△、×、×××の5段階評価を明らかにしてしまおう。生意気だから何でも良いんだ!と。

 

   •  「蟻の巣の子共達」、◎「太陽を盗んだ男」、△「「赤線基地」、×「恋文」、×「夜の鼓」、△「「僕の村は戦場だった」、

×「フルスタリョフ車を」、△「「ジェラシック・ワールド」(新作)、×「ビック・ヒート」、◎「M」、△「「暗黒街の弾痕」、

×××「広島1966」、○「天国と地獄」、△「女の肌」、

△「散歩する霊柩車」、△「最後の切り札」、○「七つの弾丸」、

○「心に花の咲く日まで」、×「望みなきに非ず」、

×「争う美人姉妹」、×××「風雲七化け峠」

21本(少なかったな)で○も少ないし、生意気になるために×××も書くことにしました。

 

 

『太陽を盗んだ男』長谷川和彦 昭和54年 キティ・フィルム

(2018/4神保町シネマ)

 

 これは名作なので書かないことにしたいが、この後の作品が無いままに約40年が経つ長谷川ゴジの伝説の最新作なので。

 完全を求め過ぎるほどの求めるゴジさんとは、もう30年お会いしていない。遂に第3弾が!となったら正直見るのが怖い。このまま伝説になってくれていいと思いつつ‥恐る恐る見に行くんだろうなと心で呟きながら劇場を後にした。

 ハリウッド風の設定ながら日本テイスト充満‥いや、逆か?少なくともハリウッドを真似たみそ汁映画ではない。なんで中学教師の沢田研二は原爆なんか作って政府を脅迫したのか?奇想天外・荒唐無稽で構わないのだし、そこをセンチメンタルに過去のエピソードを使って説明したら最悪の日本映画になる。まるでそんなこと描かないのに、流れに乗ると思いがそこに馳せてしまう。ひとつひとつの画面の奥のその奥に沢田研二の過去を見つめようとする鋭い眼差しに流れが乗り移っているからだろう。予定調和にならないのは、先生の生き方を見つめているだけだから。それを真剣に見つめようとしているだけだから。ざっくり書いてじっくり見る。これがゴジさんの完全主義だ。ここが後に続くどの映画も超せない大きな見えない根拠だ。だから、菅原文太は「県警対組織暴力」のやくざと駆け引きする刑事を超えられたのだ。

 「青春の殺人者」に繫がりながらも、しかし先生は未来に絶望していない。前を向いてもがき続けている姿を、文句なく後押ししてしまう。奇想天外・荒唐無稽がリアルも超えて確かに存在していた。

 だから、‥原爆症に冒された先生が銀座の歩行者天国(懐かしい!)を彷徨うラストに思いが注ぎ込まれる。‥だから原爆の音は不要だった、何の効果音も音楽も不要だった。それだけ(死)が彼の未来じゃないでしょう。死はどうせいづれやって来るんだから。先生は負を跳ね返す生き様を見せてくれたんだから。もっと言えば昭和の武士道をみたんだから。

 

 

『僕の村は戦場だった』アンドレイ・タルコフスキー 1962年 モスフィルム(2018/7/25 fiaf=国立映画アーカイブ→既報の通り、かってのフィルム・センター)

 感激が生まれなかった。いや退屈してしまった。タルコフスキーなんて知らないよの時に初見、その瑞々しい人間デッサンと時代に対する深く哀しい見通し方に感銘を受け、タルコフスキーのその深さにしびれてきた一筋の映画道が、ここでやや崩れた。どこにも居場所が無かった。「ノスタルジア」を「エレニの泉」を見るのが怖い。どこかで落とし前付けねば。

 

 

『M』フリッツ・ラング1931年 ドイツ

(2018/8/14シネマヴェーラ渋谷)

 ラング初のトーキー作品。初期のトーキー作品の音の使い方って目を見張るものが多い。映画史的に言うと音楽に合わせて踊るとか、唄う顔のアップで口から声が出てる驚きとか、そこからの反省が音と画面の対立的な使い方が生まれてきた、ということになるんだが、いやいや作家の精神はそんな線的な流れになってない。音楽映画の走りと言われる「巴里の屋根の下」(ルネ・クレール)にしても、不要な音、現実的で説明だけの音は全て排除され、代わりに画面と音の関係が模索され続けている。

 画面に対して慎重に音を選んでるのだ。というより隙間を音で埋めてはいないのだ。あえて音と音の隙間を作っている。音の無い画面が生きて迫ってくるから、音が際立っている。音が主張した後の無音の画面があるから画面が際立っている。

 音を付けないことは作り手にとって実に恐いこと。退屈させないために音を付けるとか、感情を音楽や効果音で強調するとか、つまりごまかしで音を付けてしまうことって少なくない。かくいう自分もまさにその極み。「困った時の音頼み」。音を消して画面だけ見ると如何に貧弱な画面の多いことか。犯人が鏡に映った自分の背中にMの文字を見つける有名なショットは確かに恐い。口笛の音も不気味だ。でも、中盤で初めて犯人の声を聞いた、その高音で少々とろい声が最高に恐かった。

 もちろんラングと奥さんのテア・フォン・ハルボウの共同脚本もすごいし、静かなる光と影のカメラもすごいが、それらをサイレントの画面が活き活きと見せびらかす、その凄さに酔う。

 

 

『ヒロシマ1966』白井更生 昭和41年 新制作集団

(2018/8/21阿佐ケ谷ラピュタ)

 この人、映画を作りたい!って思いは人一倍あるんだと思うけど、映画作る才能は無いと断言します。今更私が断言しても、こうやって名画座に登場するんだから仕方ないけど、いや悲惨な映画だ。聞けばこの人はアラン・レネの「二十四時間の情事」の助監督をやっていたそうだが、その雰囲気の形だけもらってきたみたいだ。役者を活かせてないし、何よりもかによりも全てが調子づいてない。望月優子と加藤剛と松本典子という名立たる役者陣もカメラマンも魂入ってない。それで深刻ぶってるからたち悪い。

 「学生映画」って良くバカにするけど、学生映画は心込めようとして形がイビツだから込め切れないだけ。役者やスタッフの良いとこ引き出そうとしないで、ただ言いなりになってるだけってのとは違うんだぞオイ。ある意味、見て良かった。

 

 

『天国と地獄』黒澤明 昭和38年 黒澤プロ&東宝(2018/8/23fiaf)

 11歳のとき『隠し砦の三悪人』を見て、もうびっくりして、かっこ良くて、しびれて、“隠し砦の三悪人ごっこ”を考えて、映画は監督って人が作るんだと初めて思って、自分の生まれた時に『野良犬』なんてスゲエ映画作ってる人で、ともかく他の映画と後味が全然違う映画作る人だって神様だって思って、初めてロードショーで見た黒澤映画が、これです。『赤ひげ』で凄いんだけど‥ウム?って思うまで、黒澤信仰は続きました。ありがとうございました。

 

 

『七つの弾丸』村山新治 昭和34年 東映(2018/9/4新文芸坐)

 三國連太郎の銀行襲撃の計画から実行そして逃亡。若き銀行員今井俊二と銀行の横の交番で実直に働く警官高原駿雄、そして妻子を捨てて田舎から上京し若い女と同棲中のタクシー運転手伊藤雄之助(これが信じられないくらい、はまってる)たちの三國によって狂わされていく人生が、ドキュメンタリータッチで交互に描かれていく。こういう構成はいかにも映画的で安易なんだけれど、はまると文句なくサスペンスを生む。村山監督はドキュメンタリータッチの得意人だが、橋本忍の脚本が描き出す群像設定の出来映えが細部を文句ないものにしていて抜きん出ている。カット・バックは映画の醍醐味だ。そう言えば同じ橋本忍脚本の「砂の器」も原作には無いカット・バックの人間ドラマだった

 もちろん現場での直しはあるだろうが、それを成り立たせる土台に、地方と都会の格差、学歴重視の社会、核家族化という社会問題が毅然としてあることの説得力が脚本にあるからこその現場事情に負けない映画が出来るのだというお手本か。

 何よりも伊藤が田舎に残してきた妻の菅井きんが秀逸。改心した伊藤が子どもたちと妻きんを東京へ呼び寄せ、さあこれから‥‥って言う時に!銀行襲撃の後の三國をたまたま乗せてしまい!殺される(ここでやっと伊藤と三國が接点を持つというのも半ば分かっていることなのに、あぁ!と思うのは妻きんの存在感が大きいのだ。そしてラスト。東京に出てきて夫を失って仕事の無い母きんさん。デパートで万引きを働いて捕まってしまう。泣いてしがみつく子どもたち‥‥容赦のない群衆‥‥あぁ絶望のエンド・マーク!(良い意味で)みそ汁テイストの「自転車泥棒」‥

 

 

『心に花の咲く日まで』佐分利信 昭和30年 文学座

(2018/9/5ラピュタ阿佐ケ谷)

 タイトルも監督も配給もきっと真面目な映画なんだろうなと思いつつ、淡島千景に惚れた弱みで見に行きました。いや。良かったですよ。真面目で。失業中の夫芥川比呂志のひょうひょうとした感じも、ミシン踏みで家計を支える若き淡島千景の健気さも、素直に受け容れられますよ。奇をてらうこと無く淡々と貧しい若さを描けるのは大したもんなんです。確かに心に花の咲く日を夢見る戦後日本です。心の話しだから、「七つの弾丸」の日本はありません。

 驚いたのは夫婦と赤ん坊の関係なんですよ。二人は我が子を名前で呼ばない。“赤ちゃん”なんです。確かに1歳にもならない乳飲み子なんですけどね。しかも“赤ちゃん”を一人置いて夫婦で散歩に行ってしまったり、夕方家へ帰ってきて電気を付けると“赤ちゃん”がおとなしく寝てるとか。今の子育て世代とそれをうるさく見つめる社会常識から考えたら、あり得なくネ?なんです。その頃の日本の常識がこうなのか、それともこれは心の話しだから、常識に問題提起をした表現なのか、当時7歳の私には知る由もないことなんですがね。

 そう言えば私ら子どもの頃は夕方暗くなるまで外で遊んでました。遊びたかったのもあるだろうけど、親が“外で遊んでろ”って我々を追い出していたもんでした。きっと家が狭いし、家の中で遊んでいると邪魔だというのもあったんでしょう。大人と子どもの関係って、そのくらい距離があった方が、お互いに楽だろう。“赤ちゃん”さえ良ければ、この距離を撮ろうとすることが、心に花を咲かせる第一歩だと、そんなメッセージかも知れない。

 時代は違うけど「シェーン」で、夫婦喧嘩を始めると子どもに“外で遊んでなさい!”と言うシーンがあって、えっ!夜だよ?と思ったもんです。「禁じられた遊び」もそうだし。実は世界の中心は大人だって考え、見習うべきところあるんじゃないですかね。

 あっ、原作と脚本は田中澄江さんと言う女性だと‥やっぱり問題提起がたくさん隠れている映画かも。もう一度見なければ。

 

 

『風雲七化け峠』並木鏡太郎 昭和27年 新東宝ドイツ

(2018/9/12シネマヴェーラ渋谷)

 あと6年くらい遅く公開されていたら(小学生の私なら)当時きっと見ていたはず。だって新東宝の時代劇と言ったら並木鏡太郎。七化けの峠が風雲なんだぜ!しかも鞍馬天狗のニヒルな嵐寛寿郎主演、新人三原葉子が短パン見たいナの履いて悪人に立ち向かうんだもん。

 三木のり平でやったら抱腹絶倒になったはずだけど、アラカンだから真面目に見てしまった‥‥あーぁ

 入り込むと帰って来られないと言い伝えられる七化け峠。山深い場所じゃなくて峠‥みんなズンズン入っていくけど危険な場所‥そこで浪人アラカンは簡単に謎の洞穴を見つけて中に入っていくと‥けっこう広くて楽に歩ける‥上に出口を見つけて出てみると‥立派な屋敷の古井戸‥峠からみんなが住むとこって近そう‥でもそこは良い人を装った悪い奴の屋敷‥狐の面を着けて洞窟で踊る悪い奴ら‥死んだ父の山を守る姉弟、武器は吹き矢‥すぐ使えなくなる‥その謎を解くのは父の江戸土産の“海苔“‥”海苔“?

 もう作りたいように作ってて、どうでも良いほどディープ。見る人が見たら“凄い!!!”という映画でしょう。カルトってこういうことなんでしょう。やっぱり三木のり平じゃなくて嵐寛寿郎は正解なんでしょうな。

 

 

 

 

 

 2018年08月19日更新

 

 

新生意気坐

(4月から6月まで)

因に、この3ヶ月で見た映画に目を通してみます。

「リボーン」「武曲」「モランスコボリ」「新幹線大爆破」「狂った脱獄」

「かげろう」「名も無く貧しく美しく」「浮き雲」「ゲット・アウト」「スイス・アーミー・マン」「完全な遊戯」「8時間の恐怖」「マダム・サタン」「雨」

「東京の女」「風の中の牝雛」「エノケンの近藤勇」「血と砂」「オズの魔法使い」

「ご冗談でショ」「征服されざる人々」「アフリカ珍道中」「ゴッホ最期の手紙」「ネルーダ」「スリー・ビルボード」(=対象外作品○)「ファーゴ」「MIFUNE」「四畳半襖の裏張り」「四畳半襖の裏張り〜しびれ肌」「はたらく一家」「マル秘メス猫市場」「家族ゲーム」「嵐」「ホーリー・マウンテン」「エル・トポ」「逆噴射家族」「喜劇女は度胸」「肉弾」「デトロイト」「ロープ」(=対象外作品○)

「人間機械」「第三の男」「背後の人」「氷雪の門」(=1974年制作だが2010年公開の幻の対象外作品×××)「アフリカの光」「青春の殺人者」 の計46本‥選択にポリシーが無いのが分かります。手当たり次第。で、え?お前これが良いの?とか、何でこれがダメなんだよ!とか‥ですので。

 

 

『かげろう』新藤兼人 昭和44年 近代映画協会(2018/4/13シネマヴェーラ渋谷)

 新藤・音羽は最強コンビ!!映画のしょっぱなから死体で出てくる音羽信子!それも舟に括り付けられて海の中をほぼ裸体で!長回し‥‥自分の原風景に拘る監督の真剣味もそうだけど、いやぁ、惚れた監督のために、やり切る女優ってすごいなぁ。

 「裸の島」でも、水が一杯に入った桶を天秤で担いで山道を歩くって、ホントにやってるでしょ。腰しっかり入れてるんだけど、なんせ細い身体だから、あぁ危ない!なんて思ってそれだけで力が入ってしまう。セリフの無い映画で最も雄弁に語ってるのが身体。誰も言わないけれど、音羽信子は肉体派女優です!!バスター・キートンと音羽信子は身体で魂を語れる役者です。

 その事件を追っていけば、案の定、彼女の悲惨な過去が浮かび上がってくるというサスペンスだけど、彼女の過去には虐げられた部分としたたかに生き抜こうとする部分と、歪んだ陰と陽が見えてくる。虐げ信子は切なさ二倍で、したたか信子がまた艶っぽい。白黒で切り取られた瀬戸内の風景の光と影の妙もさることながら、精神的な光と影のノブコ・ノワールに、拍手。

(新藤・音羽の最強コンビ‥この間「どぶ」と「縮図」を見損なった‥‥又があるか無いか!が名画座の宿命なのに、だ。)

 

「完全な遊戯」舛田利雄 昭和33年 日活(2018/4/20シネマヴェーラ渋谷)

 若き小林旭は渋さが無い分瑞々しさが良い。坊ちゃん大学生が思いついた競輪賭博の犯罪が巻き起こす悲劇という、いかにも若い日活の若い映画。ノミ屋を仕切る葉山良二が真面目過ぎてワルに見えないのは純情な妹芦川いづみが絡む悲劇が待っているからしょうが無いところ。

 大学生達がノミ屋を騙す手口を練習するくだらなさが、テンポ良く処理されていて見入ってしまう。大胆なカメラワークでスピーディな展開は舛田節の面白さ。音楽もかっこ良く、こういうスタイリッシュな語り方はちょっと間違えると恥ずかしくってしょうが無いもの。その綱渡りが上手い。 

 ノミ屋騙しの成功の後、ぼっちゃん旭の思ってもみないところで、純情いずみが巻き込まれていく哀れで悲し過ぎる展開は予想を裏切り、題名をも裏切る。良かった!単なる悲劇、単なる青春ではなく、生きる切なさが身にしみる一本。

 

 

「風の中の牝雛(めんどり)」小津安二郎 昭和23年 松竹(2018/5/3神保町シアター)

 なんで〈若い牝のひな〉と書いて〈メンドリ〉と読ませて、田中絹代を牝雛に例えたのか?オズ世界って深いんだよなぁ。

 ストーリーの説明になってしまうけど、夫が復員してくるのを幼子とともに慎ましく待つ田中絹代がいてさぁ。夫が帰ってくることを信じて健気に生きる女は楽ではない。あるとき子どもが急に熱を出す。(だいたい映画の中の子どもって急に熱出すんだよなぁ。実はその前から少しずつ熱は出ているんだから、そこを上手く描く映画、ないのかなぁ。)

 で、がらんとした畳の部屋に寝ている子どもと母絹代、そこってどこ?何の説明も無いんで分からない‥しばらくすると、物干し台から下を通る田中絹代のことをしゃべる二人のお姉さんが‥あっ看護婦だ!ここ病院か!じゃ、あれは病室なんだ!俺が生まれた頃の病院って、二階家の日本家屋の、畳敷きだったんだぁ、とびっくり。

 (と、いつまでも初めて知った感激には浸ってはいられない。)どうやら治療費が高い(らしい)、簡単に払えない金額(らしい)、借りても返せない(らしい)のだが‥で、そう!身体を売って生活している友人もいる訳さぁ。あーっ!ダメだよ絹代母さん、あんたは奥さんなんだよ、子どもを無事に育てて、いつか帰ってくる夫を待つ、母さんで‥奥さんなんだから‥でもなぁ‥‥じゃあどうしろって言うんだ?

 ついに佐野周二が復員してきます。喜びあう二人。でもどこか不自然な妻絹代‥‥ついにたった一度の売春は分かってしまい、母絹代は告白します。するな!黙ってろ!佐野周二許してやれ!なんて言う私の声は全て届きません。知らないままの方が良いことってある。だけど共通の過去の無い夫は、知りたがるよなぁ‥許したいけど許せない。それを時代のせいにしたところで、何も解決なんかしない。

 解決しないことで言い争う二人‥いや許したいけど許せないと叫ぶ男周二と、許してくれとも言えず、他に方法が無かったと言い訳も出来ず、泣くしかできない妻絹代が揉み合う。突き飛ばされた表紙に、妻絹代は足を滑らせて階段から落ちて!

 ここが凄いんです。奥さんで母の絹代が階段落ちです。ワン・ショットです。ゴロゴロ転がるんでなく、一気に頭から落ちるんです。しかも、しかも二階の夫周二のもとへ這い上がっていくまでワン・ショットなです。女絹代です。この力、溜めに溜めて爆発する力。吹き替えでは出ない力、小津映画で唯一のアクション・シーン、唯一のバイオレンス・シーンだ!

 こうなったら、もう一度やり直そうと抱き合う男周二と女絹代しかないでしょう。めでたしめでたしの解決策なんてあるはず無いんだから、背負って生きてくしかないでしょう。これで文句あるか?という力技のエンド。文句ありません。

 

 

「東京の女」小津安二郎 昭和8年 松竹(2018/5/3神保町シアター)

 サイレント映画。無くても良いけど、あるとつい拍手してしまうピアノ伴奏付き。弁士付きなら当時を再現してってことで分かるけど、無くても良いんじゃないかな。客席で出す音が聞こえなくなるからあった方が良いのかな。申し訳ないがその程度。

 さてここにはローアングルと独特の間で見せる小津調は無いです。だから小津さんがリズムで映画を奏でているという私の持論が間違いではないというのがよく分かるんです。理詰めじゃないリズム。感情のリズム。見えていることから感情の流れを摑み取るリズム。

 しゃべっている画面があれば、続けてその内容を字幕で見せる、それがサイレント映画の基本。だけど小津調無声映画は不親切で、話している途中で字幕に変わってしまう。カットする根拠は話しの区切りでは無くて、話している内容の速度、感情の速度にあるようだ。字幕の長さも充分読んで理解できる長さじゃあ無い。あくまで流れの緊張感を保つ長さ。そんな流れは伊藤大輔作品にも感じた。

 親切株式会社でもなければ分かってもらいたがり病でもない。だから“ン?”が残る。それが作品の拘りとして残る。〈流れの説明はする。説明は面白くする。〉それが作家。観客に媚びたりしない。だいたい観客って誰だか分からないから自分に挑戦する者。“さあ、かかって来なさい”映画がそう叫んでる。

 (話しは別なんだけど「フルスタリョフ、車を!」(1996、セルゲイ・ゲルマン、ロシア)という〈世界映画最重用作の一つ〉を見たけど、さっぱり面白くなかった。作り方は確かに“さあ、かかって来なさい”なんだけど、かかっていけない。整理券が出てNFAJ(かってのフィルム・センター)は満席なれど、ここかしこで鼾の音。スターリン体制が崩壊する直前に起きた医師団陰謀事件を題材に‥この事件を知らないで見ても鼾になるのは当然。私を含めて多くの観客が負けてる。ちゃんと調べて見に来い!それは客が映画に“さあ、かかって来なさい”と叫ぶための必要条件なんだろう。)

 小津サイレントを他にも見ていればこれが○になったかどうか?でもピアノ伴奏が気にならなかったのは確かだ。

 

 

「血と砂」岡本喜八 昭和40年 東宝/三船プロダクション(2018/5/13ラピュタ阿佐ケ谷)

 昭和20年あと少しで終戦となる頃、若者で構成された軍楽隊が最前線に送り込まれて全滅するというあり得ない話。彼らの軍服はきれいで、少ないながら食料もある。慰安婦団令子の美しさはあり得るが存在があり得ない。その最たるものは、彼らの演奏するのが敵国アメリカの有名なジャズ〈聖者の行進〉。

 あり得ない話しを、あり得るかの様に語る喜八リアリズムは楽しくておかしくてかっこ良くて、哀しい。馬鹿馬鹿しく登場する〈聖者の行進〉がラストで余りにも勇ましく激しく響く。見終わった時には全て受け容れてしまう喜八マジック。画面の奥をじっと覗き込もうとしている眼が揺るぎないんだろう。

 三船敏郎も仲代達矢も佐藤允も伊藤雄之助もみんな〈いつもの〉キャラクターなのに、その集合は喜八ワールドって希な監督だ。

(「日本の一番長い日」に出演して、つまらないミスでNGを出したのは私です。すみませんでした)

 

 

「アフリカ珍道中」1941年 アメリカ(2018/5/17シネマヴェーラ渋谷)

 これは監督じゃなくて主役の二人の映画ですよね。役者の映画ってありますよね。ビング・クロスビーとボブ・ホープ。監督は二人の掛け合いとギャグが上手くいっているかの確認係と断言します。

 舞台がドコであろうと、どんなお話であろうと、ほとんどどうでも良いんです。ビング・クロスビーが唄って、二人が冗談を言い合って、ボブ・ホープがおバカな表情をすれば、それで良いんです。たっぷり笑えるし、あれ?このギャグ他で誰かがパクってるなって感心するんだから。だから飽きられて終わったんでしょう。でも今でも新鮮なのは、彼らが他に無い笑いを生み出したからだと断言します。ありがとう。

 

 

「四畳半襖の裏張り」神代辰巳 昭和48年 日活(2018/5/25新文芸坐)

 宮下順子と江角英明(私の先輩)の蚊帳の中での濡れ場がながーい。しかも長回し!それをこれでもかと見せ続ける姫田真左九さんのカメラがこの上なく凄い。性交シーンによく使われる蚊帳が、こんなに活かされた映画は他に無い。そのシーンの間にいくつかのエピソードが挟まれるという〈良くある〉構成なんだけど、他に真似が出来ないようなきめ細かい画面の流れに唸ってしまう。

 ロマンポルノが大正ロマンを焼き付けた。

 

 

「家族ゲーム」森田芳光 昭和58年 にっかつ/ATG(2018/5/30神保町シアター)

 個人映画時代のライバルで朋友の劇場二作目で最大の傑作だと思っていた作品を、この際!と恐る恐る見に行ったら‥全然色なんか褪せちゃいない傑作だった。嬉しい。

 ついこないだTVで見て“えっ!こんなおどろおどろしい話しだっけ?”と呆れたことがきっかけだったんだけど、いやいや、日常の裏にありそうな(あくまでありそうな)思いを浮き彫りにしていくシュールな笑いの積み重なりが、どこにでもありそうな家族の関係を冷めた関係!と切って捨てるやり方は、個人映画時代から続く森田節ですよ。これが怖いということなんだよなぁ。

 当時古い(あるいは中堅の)映画人達が、森田は映画を知らない、文法がでたらめと酷評していたクライマックスの食事のシーンは記憶の中の画面とだいぶ違っていて、普通だよと思えた。この見せ方に刺激を受けた若い(あるいは心のある)映画人達が踏ん張った証かもしれない。ヘリコプターの音がのどかな部屋の中に響くラストの怖さは、やっぱりやられた!森田君安らかに。

 

 

「喜劇 女は度胸」森崎東 昭和44年 松竹(2018/6/5神保町シアター)

 無数にきらめく映画の中から“何を見るか”を決める根拠は大したことは無い。監督、役者、宣伝文句、空いている日(映画と別の用事を諮りにかけて決めるだけだけど)etc.あとは題名。だいたい題名に「喜劇」と付くのは面白くない、とこういう偏見は人によって違うけど、けっこうある。

 でも題名は会社が客受けするように変えることもしばしばある。こういう企画でこういう題名で作れと言われて、そこに自分の拘りをぶち込む職人作家も少なくないから、あまり当てにはならない。「女は度胸」は新人森崎監督の生に対する拘りが漂っていて好感。

 女子工員倍賞美津子と、彼女を好きなくせに売春しているンじゃないかと信じ切れない頼りない次男川原崎健三。寅さん以上に無神経だけど寅さんとは別の人生観が時に説得力ある兄渥美清や、こいつが情けないから兄弟がこうなるんだと納得の父花澤徳衛が絡んで大騒ぎするという、山田洋次(脚本)の匂い満載映画なんだけど、人間のデッサンがどこか哀しく、どこかクールできっと自分を見てるんだろうなと思えてくる。

 森崎監督は“へその緒”と良く言っていた。自分の目の前の映画に“へその緒を見つけろ”と言っていた。自分のことを見つけろという、その姿勢が自分らしさが余り表面には見えない、このデビュー作には最も感じられる。

 話しは収まるとこに収まるように見えて、最期に清川虹子母の爆弾が待っていて映画は壊れる。冒頭から愚かな亭主と息子達にじっと耐えている哀れな虹子母だと思っていたら!この貫禄芝居は圧巻です!と脱帽。

 

 

「青春の殺人者」長谷川和彦 昭和51年 今村プロ/ATG(2018/6/29神保町シアター)

 うん、分かっていてもやっぱり衝撃。だってそんなに突然父内田良平と母市原悦子が息子水谷豊に殺されるのかぁ!なんだから。あの台所の真っ赤な血はやっぱり衝撃。

 冒頭のシーンで、そこへ辿り着くまでの時間が全て語られているし、ちょっとあとの時間が浮き彫りになるってみんな考えて作るけど、細部の積み重ねに手抜きが無いんだろうなぁ。でも、展開は予測できるものかどうかだけが大事なんじゃない。設定されたシーンの背後にあるものを見つめてしまう。黙ってしまう。つまされてしまう。長谷川、いやゴジさんがシーンの奥を見つめる手を休めてないんだろう。だから何があっても、起こっても、疑問が生まれない。弱点が見えなくなってる。だって、よく分からないエンディングのクセに、これしかない、これで良いと思ってしまうんだから。

 弱点があるととすれば、許されざる恋人原田美枝子がやたらうるさいこと。もともとヘタクソ演技だと言う先入観もあるから、出て来て叫ぶたびに、うるさいとしか感じないんだけれど、あっ!逆手に取ってるんだ。この声が息子水谷にとっての邪魔でしつこくてやり切れない周りとの関係の象徴なんだと思えてくる。完璧主義者で強気のゴジさんだからの勝負なんだと。しかも原田美枝子にだけは客観的に向き合ってしまえる。つまりイントロからずっと入り込めずに見守るだけのこの世界に、入り込める‥やっぱり、負けたかもしれない。

 

 

 

 

 

 2018年05月30日更新

 

 

新生意気坐

(やっとやっと今年の作品になりました。)

 

 

『救命艇』アルフレッド・ヒッチコック 1944年 アメリカ

(2018/1/5シネマヴェーラ渋谷)

 暮れからヒッチコック特集でした。サイレント時代の傑作で二階を歩く男を透明ガラスを床に見立てて階下から撮った「下宿人」、名作「バルカン超特急」とか準主役の少年が時限爆弾を持ってバスに乗りハラハラの挙げ句に殺してしまい後に反省したと言う「サボタージュ」などイギリス時代の映画も多数あり、今時珍しい立ち見が出た日もありました。

 これはアメリカへトレードされてから3本目の作品。イギリス時代に比べるとプロデューサーからの規制が多くなったと言うことだけど、規制は諸刃の件。その規制の力を跳ね返そうとして、ソウくるか‥ソレならこうするぜ!というアイディアが、作品の力となることがある、それを作家と言うんでしょう。

 作家ヒッチコックについて昔ある単行本でハラハラドキドキの「ジェットコースター映画」と書いたことがあるけれど、いやいや彼の映画技術を超える映画は未だに無いですね。

 何が凄いって見せない技術!何かを見せないで(何かを見せながら)「愛」をずーっと繋げていく‥‥これがサスペンスなんですよね!残念ながら今のサスペンスはヒッチコックが作った技術を使っているだけ。

 これは、ドイツのUボートの魚雷に撃沈された豪華客船の乗客7人が乗る救命艇に、同じく沈没したUボートの乗組員1人が泳ぎついて始まるサスペンス。

つまり密室劇ですね。このドイツ兵が7人のために力を貸しているのか欺いているのか、最後の最後まで(ホントに)分からない。しかも7人のキャラクターが後の幾多の作品の「典型」になっているけれど、一筋縄ではいかないキャラクターには真似でない面白さがあるんですよ。これも傑作ヒッチコックのひとつでしょう。

 

(一月は10本見たけど、○がついたのはこれだけでした・・・)

 

 

『下郎の首』伊藤大輔 昭和30年 新東宝

(2018/2/2フィルム・センター)

 題名は聞いたことあるぐらいだけど、まあ名匠伊藤大輔だから、という程度で見たんですけどね。いやぁこれが凄いのなんのって。かっての映画屋さんの美意識を直球で受けとって、映画作りに尊敬の念を抱いてしまいます。

 将棋のいざこざから殺された父の仇討ちの旅に出た若侍(片山明彦)と槍持ち(田崎潤)。が愛と忠義で結ばれて‥‥いたのに!‥いたのに!‥旅先で病に伏した主人を気遣う田崎槍持ちがひょんなことから仇を見つけ、ひょんなことから討ち取ってしまう。これは本懐を遂げたとは言えないわけで、片山若旦那は怒ってしまう‥怒ったってしょうが無いだろという空気。で、その仇というのが剣術道場の先生だったから弟子たちが黙っちゃいない早速若侍に果たし状を‥アレ!ストーリーを話してる‥若侍は返事をしたため相手に持っていくように槍持ちに‥あーストーリー話しちゃいけないのに‥返事の内容は分からないけど槍持ちを果たし合いの河原に行かせて、自分は急いで旅支度!これが返事の内容か‥ワァまだ話してる‥手紙を読んだ敵は笑いながら槍持ちに真相を明かして、槍持ちを許すかと思いきや、よってたかっていたぶり始めるのだ!身を守るための暴れる槍持ち。見物がぞろぞろ集まってくる。その流れに逆らってヨロヨロ急ぐ(病気だからね)その全てが彼は「下郎」だと叫んでいる。

 これが片岡千恵蔵なら殺されはしないと思えるんだけど、なんせ田崎潤だから、どうなるかなんて分からない。グチャグチャの決闘とヨレヨレの逃亡のカットバック!画面のつながりはテンポ抜群(つなぎはリズムが最優先の言えば伊藤大輔と小津安二郎が双璧!)これが片岡千恵蔵や中村錦之助なら御大の見栄やアップは少々長くなってテンポを崩すけど、なんせ田崎潤だから(笠智衆もそこは同じ)そんなの関係ねぇ!リズムこそ映画だ!しかも別名「イドウダイスキ」だから乗りの乗ってる圧巻のクライマックス。

 この際だからクライマックスもっと話しちゃうけど‥やっと渡し場にさしかかった若侍、振り向く!(映画で振り向く、は需要な記号!)そうだ、戻れ、ここで戻ればお前はヒーローだ!必死の下郎、ヨロヨロ戻る若侍(アー、クソリアリズム!)‥‥ここからは口が裂けても話さない!絶対話さない。

 自然光が活かされたモノクロームの諧調がロングショットを優しくもの悲しく包んで、ときに下郎にときに若旦那様に思い入れしながら、人の世で変わらないものなんて何も無い、儚いよなぁと。で、それを当時から河原にいたお地蔵さんが語っていると言うラスト。ありっこ無い設定なんだけど、それでアッ若旦那様は俺のことだって思い知らされると言う‥‥言葉少なく豊穣な生と死が語られるんですねぇ。映画だ!でした。

 

 

(そう言えば、フィルム・センター[NFC]は4月から「国立映画アーカイブ[NFAJ]」になったんです。表面的にはこれまでとはロゴが変わってセンスが良くなった位の違いなんですが、美術館になったということです。つまり、これまでは国立近代美術館の付属機関に過ぎなかったのが、日本国が映画を美術・芸術としてやっと認めて、独立した国立美術館になったということなんです。そうなって当たり前だろうと言うか、やっとなったか!と言うか、記念すべきことではあります。念のため。)

 

 

『爛(ただれ)』増村保造 昭和37年 大映

『赤い天使』増村保造 昭和41年 大映(2018/2/4新文芸坐)

(二本立てで、日本とも○がつくと、得したぜ!感が半端無く。)

 若尾文子の演技って強烈ですね。名監督って役者を追い込むのに長けた人だけれど、それだけじゃなく、役者自身が自分を追い込むのが名優なんですね。そう言う意味では若尾文子は名優です(きっぱり)。

 『爛』の嫉妬に狂い若い姪(水谷良重)と格闘をする妻(前妻から奪い取った座)のすさまじさは本気だよと思ってしまうし、『赤い天使』で尊敬する軍医(芦田紳介)に愛を告白する表情のひたむきさに文句が言えない力がある。

 もちろん『爛』のリアルな描写の流れで積み重ねたものが語るものの力や、『赤い天使』の腕や脚を切り落とされ(音が凄いよ!)、もだえ苦しむ兵士たちに身を投げ出す従軍看護婦の生活の積み重ねが生み出す力が、若尾文子に乗り移っているのは確かで、順撮り(ファースト・シーンから順番に撮っていく理想的な形)のような気持ちのつなげ方が、見えてくるのです。

 

 

『夫婦』成瀬巳喜男 昭和28年 東宝(2018/2/17神保町シアター)

 東京へ転勤してきた上原謙と杉葉子(初めて可愛いと思った)夫婦に独身三國連太郎が同居するから、こんな(どうでも良い)騒動が始まるんだよ、と言うどうでも良い話=これを小市民ドラマというんでしょう=をよくもまぁきちんと見せるもので、こういうのを[鮮やかな手腕]というんでしょう。胸がすっとします。上原亭主がウオウサオウするのが当時の男の象徴なのか、そんなんで良いの?と突っ込めるけど、よく考えると自分にも思い当たる節を見つけたりして、そうすると憎めない奴だなんて思ってしまうのが面白いです。

 

 

『レベッカ』 アルフレッド・ヒッチコック 1940年

(日本公開昭和26年)アメリカ(2018/2/25つるまい名画座)

 注:つるまい名画座は二ヶ月に1回私が解説している地域の映画鑑賞会です。

 またまたヒッチコックです。アメリカ初進出の傑作として余りにも有名なんで、どうかなぁ‥‥

 改めて見ると前半が少々長いけど、ヒッチコックはやっぱり神様。プロデューサーが館の全景を撮れる場所がないと言うのでミニチュア撮影をしたことで不気味さが増し、カメラがスリリングに。登場することの無いレベッカ夫人がどんどん現れてくるサスペンス。気がつくと現れる家政婦長は後のスリラー映画の手本。燃える館の炎がレベッカの“R”になるというプロデューサーのアイディアをけって、燃える館の中でレベッカの枕に炎で“R”の文字が!という他が真似できないラスト。

 後半のサスペンスのための前半のラヴロマンスが少々長いよ、凡人ならこれだけで1本作っちゃうよとか、名前の無い主人公ジョーン・フォンティンがもう少し存在感があれば‥という文句も、ヒッチコックだから言える文句、かな。

 

 

『女の暦』久松精児 国際放映 昭和29年(2018/3/26新文芸坐)

 私が中学3年生。映画鑑賞ノートを真面目に書いていた頃。その年最高に気に入った『早乙女家の娘たち』(壷井栄作、久松精児監督、香川京子主演)を再度見ようと意を決して見に行った併映で見た同じメンバーの古い(私6歳)映画で、『早乙女家の娘たち』は再見しないで思い出の中に美しくしまっておけば良かった(よくある、よくある)けれど、これに出会えたのはやっぱり青春のお陰だということ。

 壷井栄らしく舞台は小豆島。姉3人が嫁いで、妹二人(好調杉葉子と憧れの香川京子)が家を守ってる。その二人が父母の法事をしようと姉たちを呼び寄せるという話。私なんか生後間もなく死んだ父の五十回忌まで、当たり前にやっていたけど、庶民の生活ってもっと別のところで成立していたことを再発見させられたんです。愛する夫と死別して慎ましく生きる三女轟由起子、どうしようもない亭主に悪態ついて生きる次女花井蘭子、そして5人の子どもと何もしない姑に囲まれてニコニコしながら指図、ニコニコしながら愚痴、ニコニコしながら文句が生活の長女田中絹代。

 田中絹代って、会うたんびにその良さが伝わってくる。なんてことの無い顔立ちが、作品の中で必ず一度はパっと輝くいてハッとさせられる。言葉や立ち居振る舞いが流れの中で見事に実を結ぶからだろうと思うと、大女優なんだなぁと心から敬ってしまう。

 ふるさとに帰ってみたいけどそんな余裕は無い生活に妹たちからの交通費を出すからという誘いは嬉しい限りだろう。久しぶりに集まった5人は今の環境に愚痴を言い(三女は笑顔で聞いているだけ)、昔を懐かしみ、それぞれをいたわり、家族の時が流れていく。無駄が無い快い流れで。

 だから、ここで言う「女」は恋に身を焦がしたり、世の中に抵抗したりする「女」じゃない。流れに逆らわずに身を任せ、その中で何とか生きていく庶民の女。女の庶民史なんだ。大きな「時」の中で、半信半疑で生きているのが「女」の「暦」(原題は『暦』)なんだ。

 五女が結婚を切り出したいが切り出せない五女(四女はまだなんで)の未来の恋。相手の好青年(船橋元)の腹がポッコリ。あんたねぇ、豚を飼育している村の好青年役で、しかもたった一人の若い男なんだから、もっとダイエットしてこいよぉ!と思っていたら、香川京子との森の中での甘いシーンの最後は、彼女が去った後に豚と一緒に昼寝してる好青年の俯瞰シーンだった‥これで良いンだなと納得してしまう。?名監督は役者を活かす。

 三人はもっと居たいと言いながらも、それぞれの生活のために急いで帰っていく。もちろん長女は畑で採れたものを新聞紙に包んで粗方持っていく。ニコニコと。妻であり母であり、ね、女だ。小学校の教師の四女は子どもたちに向き合う。彼らは未来の庶民たちだ。去っていく船を丘の上から見送る四女。あれ?これは尾道で見たことがある!前年公開された『東京物語』(小津安二郎)と付き合わせたい一編だ。(3月までに26本見た。○は6本。少々物足りないけど、まぁこんなもんやろ)

 

 

 

 

 

 

 2018年03月20日更新

 

 

☆無駄話(その2)

 今東京は昭和の日本映画がたくさん見られます。以前から新文芸坐(池袋)は月の半分位を古い日本映画の特集に当てていますが、シネマヴェーラ渋谷、神保町シネマ、阿佐ケ谷ラピュタが競って特集を組んでいます。例えば『玉石混合!?秘宝発掘!新東宝のもっとディープな世界』(シネマヴェーラ渋谷)なんて、そそられるタイトルでしょ。大映女優祭りと謳い、それぞれが違う女優の違う作品を特集したり(シネマヴェーラと文芸坐)と。かってはフィルムセンターの特集をヒントに恥ずかしそうに組んでいたのが、今や百花繚乱の態です。見る方は楽しいけど大変でしょうね。ありがたい、ありがたい。

 もちろんマイペースで独自にごった煮路線を突っ走る早稲田松竹とか、ユジク阿佐ケ谷、川を超えるけど横浜最後の名画座ジャック(ジャック&ベティとして知られてるけど、ベティは新作上映でベティが旧作や見知らぬ映画たち)や見づらいけどいい感じのシネ・マリンなどは洋画が多いです。そういえばドキュメンタリーと若い作家の売れない映画を押し出し続ける東中野ポレポレ座、しばらく行ってないなぁ。

 話が逸れてます。昭和の日本映画です。そりゃ○も×もあるけれど、そんなの当たり前で、そんなことより「量の中に質がある」って実感します。日本映画の魂というか心意気というか、粒子の間からこぼれてくるんですよね。文芸大作とか、キネ旬ベスト10(いつ頃まで権威だったんだろう?)とか、文部省特選(あったなぁ‥)とか、芸術祭参加作品(あった!あった!)とか、そういうんじゃなくて、俺たちの映画は他と違うんだっていう息づかいだなぁ。面白く作ったるぜっていう鼻息が流れてくるんですねェ。しかも底に日本人の血が見える。他の国のことは知らぬ。日本の生活に何かが伝われば良い。そんな感じ。グローバルでもインターナショナルでも何でも無い。日本人が生きているから映画なんだって言う。小学生の章ちゃんには分からなかったことがひしひしと迫ってきて、新鮮なんです。この年で新鮮に映画と向き合えるなんて、思ってもいなかったことで、この気持ちをどう言葉にしたり行動にしたりできるか(できないか)という、まさに“さあ、これからだ!”って言う9ヶ月でした。

 

 

 

 

 

 

 2018年03月05日更新

 

 

(『白痴』はやっぱりつまらなかった。)

 

『下町(ダウンタウン)』千葉泰樹 昭和32年東宝

(8/28神保町シネマ)

 これ、これ、良い!まったく知らなかったけど、山田五十鈴と三船敏郎さん(親族なので)の代表作です。「蜘蛛の巣城」と丸で違うキャラクターでこんなところにいたんだ!という驚きです。1時間弱の中編なんです。この時代、結構中編が作られて劇場にかかってました。今になってみると、なかなか贅沢なスタッフ・キャストでしたね。で、ほとんど手抜きがない。長編の添え物なので気を抜いて楽に作ってるからでしょうか、味のあるものが多かったようです。下町(ダウンタウン)って聞くと民家が密集してたりゴチャゴチャ雑然とした通りをイメージするでしょうが、違います。例えば「野良犬」(黒澤明)のあれは、繁華街です。だって渋谷新宿池袋、駅前に露天がまだ並ぶ一角があったんだから。荒川土手を子どもの手を引いて大きな荷物の山田五十鈴が歩いてくるロング(これが映画を象徴してる)、辺りに家はほとんど見えません。行商に来たんですけど、やっと見えた家に入っても断られる五十鈴お母さんです。昼時になってバラックで弁当を使おうと思ったら男がひとりで住んでました。復員してきたけど、身内は誰もいなかった、トラック1台で仕事を請け負う三船さんは顔や声に似合わず優しいんです。この出会いが映画の全てです。少ないセリフの奥に二人の生き様が浮いてきて、三人で食堂で貧しいご馳走を食べて‥‥ハッピーエンドなんて起こらないと予感しながら、愛と哀しみが詰まってる見守れる人生がありました。やっぱり!というラストが泣けるのは、映画は信じられるかどうかなんです。ね。(☆)

 

☆あれ?9月は○が1本も無いや!

 

『キートンのセブン・チャンス』バスター・キートン 1925年

(10/6シネマヴェーラ渋谷)

 キートンのニヒルな様とアイロニーと超絶アクションは尊敬の一語です。しかも映画の画面の在り方に挑戦する実験精神はもっと理解されるべきです。ほとんどのキートン解説者はそこを見落としています。映画の画面なんてさ‥‥という大胆でいい加減なアイディアを映画はもっと利用すべきです。私はそれなりに意志を継いでいるつもりで映画してます。今日はキートンとハラルド・ロイド(『要心無用』は彼の最高傑作)の四本立てで(二人の短編2本)胸わくわく来たんですが‥‥ロイドの2本は残念!キートンの短編も、もっと凄いのいっぱい見たぜで、まぁキートンを見たこと書いておきたくて、誰でも凄いと思うだろう「セブン・チャンス」に落ち着いてしまったという‥‥でもキートンの良さはストーリーに縛られないで映画してるところ。多分アイディアが先にあって、それをどう縛るかでストーリーが出来ているから、けっこういい加減。しかし美術と自らのアクションは絶対手を抜かない。映画は映画を成立させている要素の何かが突出していることが「その映画」なんだって、思い知らされるキートンでした。(☆)

 

『安城家の饗宴』鈴木英夫 昭和26年 大映

(11/19シネマヴェーラ渋谷)

 脚本新藤兼人に外れ無し。美術木村威夫にセンスあり。監督鈴木英夫は拘りをしっかり描く。その上主演級の男優陣が菅井一郎(父)、千秋実(息子)、小林桂樹(次女の恋人)、殿山泰治(父の上司)と名傍役ばっかり!と期待度大。

次女(役者の卵)の若山セツ子って名前が冴えないし、女優は期待してなかったけど、この人が可愛いんです。きっと三歳(当時の私の年齢)の章ちゃんが見ていたら‥‥恋い焦がれてましたね。しかもこの子が悪徳芸能ブローカーに騙されちゃうんだから、それまでの庶民的家庭劇が突然サスペンスに!この展開は“えっ”でした。そしたらそしたらとんでもない展開でめでたしめでたしに。これにも“えっ”しかも?マーク入りです。この強引ないい加減さは、まさしく映画です。映画館を出た人はみんな笑顔だったと思えます。(☆)

 

次は12月だけど‥‥一本だけ‥‥お金がかかるから月に10本と限定。しかも新作も含めるから名画座は少なくなるけど、それにしてもなぁ‥‥みんなが知ってる名作ならば×や△でも書いた方が良いのかなぁ‥‥清順の問題作『殺しの烙印』も△だったし‥‥来年からは考えよう。

 

『鳩』フランチシェク・ヴラーチル 1960年 バランドフ撮影所

(12/12フィルム・センター)

 うーん。久しぶりでポエムを見た。象徴的なイメージがおおきなラストに向かってきちんと構築されていく。頭が良いというかコンテがしっかりしているというか、デビュー作だそうで次の作品を見たいと思わせる美しさ。時代からして、きっとチェコのヌーベル・ヴァーグでしょうな。バルト海の島で帰ってこない自分のレース鳩を待つ少女という冒頭からカッコいい画面に引きずり込まれちゃう。ほとんど説明はぎりぎり。だいたい映画作るのに5W1Hナンて言った奴は映像の深みを分からんで、説明を待ってる病にかかってるのは間違いない。しかもそれを受けて分かってもらいたい病にかかってる映画人が多すぎる。画面を短くすりゃ良いってもンじゃないぞハリウッドと日本!時間と空間の省略は想像力を客に挑むためのものなんだから。なって再度確認させてくれます。それにしても大胆な構図の画面は美しい!ラストの360度パンなんて、まさに職人の成せる技ですよ。彼女の鳩はプラハで車いすの少年に撃たれて負傷していて、その鳩を拾った芸術家と少年が小声尾を通わせるという展開に、これは一筋縄ではいかないぞ覚悟が決まる。そしてラストは島の彼女とも心が通うという‥‥あっ、でもこれ説明じゃないから、説明なんか出来ないから。胸打たれる映像美の流れです。ヌーヴェル・バーグとかシネ・ポエムなんていう言葉でくくっちゃ作品がかわいそうなほど、帰路の気持ち良かったこと(☆)

 

 

 

 

 


 

 

2018年02月01日更新

 

 

無駄話

 なかなか平成三十年に辿り着きませぬ。

 昨年の4月に退職しました。退職したらやりたかったこと第一位は午後七時頃に夕食を食べて十二時までには寝て、朝七時には起きる。実行してるけど体調は良いですよ。かなり。第二位は映画をたっぷり見ること。それも名画座で。名画座ってご存知!の映画もへぇーの映画もあって、でも一日だけとかやっても2〜3回で終わってしまうので、仕事してる時は見たい!とチラシに○はつけても、ほとんど行かれず、でした。

 今の映画って私にとってはどこか軽くて浅いものが多いんです。昭和(まで)の映画は話が軽くても重いものが多いんです。隅々までよく見えない(写せない)こととか、作るプライドとか、作りたい!けどまたこんな内容か、よし!とか、あるんでしょうね。勝新の座頭市の刀って重そうで切れそうだって思いませんか?そういうことが未だに不思議なんですよね。

 4月から12月までに124本見ました。そのうち明治から昭和までの映画は78本。見た直後に○◎△×をつけていて、○と◎についてここで書こうと思ってるんです。もう私なんぞが書かなくても「うん、名作だ」って多くの人が認めてるものは書いてません。(書けなかったものもあります。石井輝男の「怪談昇り龍」は口を空いてる間に勝手に終わっちゃいました。)

ときどき×みっつ!なんてのも書いた方が良いかな?でもなぁ‥‥って思ったりもしてます。

 それと反省として、お金がかかる。国立フィルムセンターは310円と安いけど、名画座もシルバーは900円から1100円。1100円って昔は嬉しかったけど、シルバーはロードショーも同じ金額なので‥‥年金生活者には月13、8本はきつい。今年からは月に10本以内にすると決めました(悲しいけど)。

 ということで、早く平成30年を書きたいです。(一月10本。古い映画9本)

 

 

 


 

 

2018年01月15日更新

 

 

『無法無頼の徒 さぶ』野村孝 昭和39年日活(7/25ラピュタ阿佐ケ谷)

あんまり期待してなかった。小林旭はバタ臭い顔が好きでなかったし、相手が長門裕之で浅丘ルリ子もバタ臭い・・・これで明治時代?・・・だけど終わったら泣いていたんです。この年齢になって涙もろくなったことよりも、素敵な映画の匂いをまだ分からないでいる自分が情けなくて、嬉しかったです。まだまだ未知な昭和に会えるでしょう。小林旭と長門裕之に演技に火花が散ってました。そこまで意固地にならなくってもと思いつつ本音が見えるようで見えないようで、人の心の綾に食い入ってしまいました。撮影(高村倉太郎さん)がその襞を見つめ続けるので、ストーリーの安易さなど吹き飛んでしまいます。で、昔の映画って何でこんなにラストシーンが素晴らしいんでしょうね。設定・・・よりはカメラとカット割の心得でしょう。哀しく人を突き放す。いや、日活の文芸映画って、アンチ松竹・アンチ大映に燃えてるんです。今回見損なった『しろばんば』をぜひどこかで!☆

 

『赤い殺意』今村昌平 昭和39年日活(7/31ラピュタ阿佐ケ谷)

誰でも名画!という作品をココで書いても意味は無いと思ってるんですが、実は見ていない。見る以前に多くの人の口にされるものは自分が見なくても良いよな、ってへそが曲がるんです。でも東北のひなびた町で封建思想に縛られた主夫が強姦されたことを切っ掛けに自分の存在を打ち立てていくというモチーフは日本的でずっと見たい気持ちは続いていたので、ココは日活文芸映画を知るために、よし!と意を決して見たのです。結果、その通り名画。喘息持ちの冴えない亭主(西村晃)が「家」を守ることで自分を保とうとする哀れさ。それに従うのが女だと自分に言い聞かせてきたことから解放されていく主婦(春川ますみ)の体当たり演技。今村節がこれでもかと迫ってきて、何も文句はございません。私が新たに言うことも、ありません。ただ、この冷たさと突き放した目の温かさは(姫田真佐久のカメラとのコラボ)、見といて良かった。☆

 

『結婚相談』 中平康 昭和40年日活(8/4ラピュタ阿佐ケ谷)

以前見たいと思いつつ、三度目にしてやっと見られた。◎でした!清純派で直視するのも照れてしまう芦川いづみが結婚相談所で騙されてコールガールに堕ちていくという、えッ!そんなの良いの?というドキドキ感がそのまんま映画になっている。騙す沢村貞子もそのまんまって感じ。相談所のある裏通りのうらぶれ加減は、ひっきりなしに聞こえてくる宣伝カーの安っぽい明るさが不安を漂わす。鬼才と言われる中平ワールドは無くて、あるのは東京オリンピックなんかで変わるのはほんの一部さっていう中平リアリズム。芦川いづみはただ不幸せではなく、そこを受け止めて生きようとするから応援したくなる。ラストはよくあるハッピーエンドなんだけど、それがアー良かった!って思えるんだから。幸せな出会いでした。☆

 

『陸軍残虐物語』佐藤純彌 昭和38年東映(8/9池袋新文芸坐)

それにしても東京オリンピック前後の日本映画って深刻に人間を見つめる映画が多かったんだね。映画好きを自覚したての高校生は「禁じられた遊び」の再映とか大作「アラビアのロレンス」の鑑賞とか、明るくて何の問題も無い「若大将シリーズ」を見て、映画を語っていただけで、幅が無かった・・・でかい三國連太郎をチビの西村晃がいびり尽くす、そのビジュアルでこの世界を語ってしまうセンスは凄い。二人の間で揺れ動く中村賀津夫も西村の後ろのお坊ちゃん江原真二郎もビジュアルでキャラクターを語ってしまう。三國と賀津夫が糞尿の中で撃針を探すシーンの迫力があるから、二人の反撃に深い共感とその後に絶対訪れる悲劇を生む。いや佐藤純彌って「新幹線大爆破」でつまらんと偏見を持っていたけど、このデビュー作は見なきゃダメだろう!(この日は同時上映の「軍旗はためく下に」の左幸子を再度見ようと行ったんだけど、拾い物でした。)☆

 

『安城家の舞踏会』吉村公三郎 昭和22年松竹(8/17神保町シアター)

脚本新藤兼人+監督吉村公三郎って外れが無いし当たり前じゃない。そこが不満と言えば不満だけど、他に無い世界に連れて行ってくれるから仕方ない。それにしても森雅之っていつも好きになれない。それだけ名優ってことなんだけど、そのイメージを作り上げたのが多分この映画だろう。落ちぶれ貴族の屋敷だけで繰り広げられるもんだから原節子も滝沢修もどこか芝居っぽいので救われる。しかも力ない扇風機の首振りの画面など、ちょっとした小道具のアップがさりげなく映画になっていて嬉しい。セットってリアルで無くて好きになれない時期があったけど、スタッフもキャストもじっくり取り組んでいる、その映画的な集中力が一言で語れない世界を生み出していたんだと、思い知る。☆

 

 


 

 

2018年01月06日更新

 

 

『唐獅子警察』中島貞夫昭和49年東映(5/21新文芸坐)

渡瀬恒彦の追悼特集。初めて記憶に残ったのは『仁義無き闘い』で母親に連れられてやくざに就職するチンピラ役。いつでも行き場の無いエネルギーがまっすぐ前にだけ投げられる、直球男渡瀬はいつでも破滅していく美学を抱えている。この映画はまさに渡瀬映画。貧しい家族を捨てて暴力団幹部になった腹違いの兄小林旭を憎悪しながらチンピラからライバルにのし上がり、なんと生まれ故郷の路地裏で二人は対決する!これはかわぐちかいじの原作から離れ過ぎでしょ、とかそんな客観的なことはどうでもよく、ともかくかって知ったる路地から路地と、二人を良く知る住民達の冷ややかな視線と、宿命に追いつめられた二人の姿は悲しくて痛ましい。死んだ弟を乗せて重傷の兄は車を運転する。そんなところには一刻もいられない。ラスト、ハンドルを口にくわえて運転する小林旭!(数秒感だけど本気!)は凄くて哀しい。☆

 

『甦る映画魂』 石井輝男

小学生時代『スーパージャイアンツ』という今考えるといかがわしいシリーズがあって、その2作目『怪星人の魔城』という怖い(当時ね)で魔性のダンスシーンが延々と続き、純粋な僕は退屈しながらも見てはいけない物を見ているようなワクワク感につつまれていた。それが誰あろう石井輝監督だったと、この特集で初めて知った。知って納得した。

『いれずみ突撃隊』石井輝男昭和39年東映(5/31シネマヴェーラ)

単なる健さん映画の追っかけとして見て度肝を抜かれた初見から二度目。ふんどし一丁で日本刀を振りかざして八路軍の砲弾の中へ突っ込んでいくラストが凄い。しかも煙に包まれて見えなくなっての終わり方がたまらない。じゃあ、そこへ辿り着くまでの話が上手く運んでいるかと言えば別にそんなことは無い。

新兵いじめをめる健さんはカッコいいし、前線の兵士の相手をする女達がそれぞれの哀しさを隠して懸命に生きている姿は哀しいし、それらとラストは同一線上にある。こうだからこうなったというわけではない。これも生き方、あれも生き方、これを渾然一体って言うのだろう。どこにも石井輝男の世界観があるだけなんだろう。一筋縄ではいかない娯楽映画。だってだって、これ東京オリンピックの年に公開されたんだよ!☆

 

『異常性愛記録ハレンチ』石井輝男 昭和44年東映(6/14シネマヴェーラ)

私が小学生の時代、『隠密変化』で主役の柳生十兵衛を演じたりしていた新東宝の時代劇スター若杉英二が、ぶよぶよの身体で橘ますみにのしかかるんだからショック。ふられても嫌われても意に介さず迫るんだからもう幼心を傷つけられた私はどうして良いのか。橘ますみも橘ますみで、何でそこまで受け容れるンダ?ってほど泣き叫びながらも結局はされるがママ。女心の訳分からない闇に付き合わされてもうウンザリ。彼女を救うダンディがやっぱり新東宝で菅原文太たちと「ハンサムタワーズ」で売り出した吉田輝雄!こちらはかっての吉田と同じでカッコいいんだけど、まるでタイミングが悪くてラチがあかないと来て、これは石井監督の旧知の友をもう一花咲かせる映画ならずいじめ?‥‥

気がつけばやりたい放題のぶよぶよ若杉は新宿のゲイボーイズと踊り狂ってる。そのゲイボーイズの絶妙な自己紹介を見ていて、力が湧いてくる。自分の辛さを隠して自分を笑い者にする彼ら(?でいい?)に哀しさと力を見る。そうだぶよぶよ若杉は自分を生きているんだ。橘ますみは(ホントにきれいだけど)自分に正直なんだ。ダンディ吉田は自分を貫こうとすると映画ほど上手くはいかないという俺たちなんだ。三人はどんどん人間的に見えてくる。どうしようもないほどに。モラルとか常識とかの外にある自分たちの人間性は、モラルや常識からすれば悪なんだけど、自分に忠実に生きようとして、居場所が無いことに気がついて、もがいている‥‥『禁じられた遊び』のポーレットとミシェールとどこが違うんだ。ラストで三人は雷と雨の中でもみ合い、若杉は死ぬ‥いや、死ぬべきは3人だったんじゃないか。それが居場所の無い人間の映画的な昇華だったんじゃないか。死なないのなら、三人でボーッとして居場所の無いままほっておけば良かったんじゃないか‥‥しかし、傑作だ!☆

 

『踏みはずした春』鈴木清順 昭和33年日活(6/16神保町シネマ)

石井輝男もそうだけど、鈴木清順という人も一筋縄ではいかないプログラム・ピクチャーを作ってきた。自分の美学と心中したい覚悟がある映画屋さんは羨ましい。それは闘いであり抗いであるのは明らかなんだから。これは本名から清順に改名した年の映画だから、その覚悟のスタートの年と言えるんだろう。左幸子は子どもの頃から好きな女優さんだ。明るく垢抜けず、どこか淋しげな表情をふと見せる。非行少年(若き小林旭が味が無理無くて良い)を更生させようとする女性の話で、もちろんハッピー・エンドなんだけど左幸子が歩いて行くラストの長回しは、これが映画。映像でなければ語れないドラマ。見るっきゃ無いんです。こう言う時、俺は見たぞと得意になれるのが嬉しい。☆

 

『女中ッ子』田坂具隆 昭和30年日活(6/28ラピュタ阿佐ケ谷)

ねえ、どうして昔の日本映画のラストって明るい内に切なさとか虚しさが滲むんだ?8歳の頃に母親に連れられて見に行った当時ずっと心に残った映画。で、新人らしく初々しくて生き生きとした左幸子。お姉ちゃんが欲しくて仕方の無かった僕は、東北の寒村から東京のお屋敷へ女中として住み込んだハツの言葉と行動に主人公同様に恋をして、涙なみだで見た。一度故郷に帰ったハツに会いに一人で雪の中を歩く少年の“ハーツ、ハーツ”の独り言に胸がかきむしられたものだ。定年後の今はさすがに同じところで泣けなかったが、画面の隅々に記憶が蘇り、あの涙は本物だったと確信した。しかし改めて60年ぶりに見たラストは!理不尽だが自分の義理を通したハツの明るいかどうかなんて分からない未来に初めて気がつき、‥‥泣いていた。多分原作の文字以上に、映像の手柄なんだと思う。必見『女中ッ子』☆

 

『沓掛時次郎 遊侠一匹』加藤泰 昭和41年東映(7/7早稲田松竹)

何度も見て、何度も泣いてしまう映画が私には五本あります。これはその一本。知っているのに分かっているのに泣いてしまう。そればかりか泣くポイントが増え、深いところで泣いてることに気づきもします。自分の過去とドンドン結びついていくんでしょう。初めは加藤泰の独特の構図やカッティングのすごさに魅了されていたんです。ローアングルと長廻しだけじゃない。画面の分割と素早いカッティングは次がどんな画面か予測させないから、その画面に出会って新鮮な気持ちが湧いて来る。加藤泰の流れは、これぞ職人芸でしょう。その積み重なりから中村錦之助が好きになった、池内淳子を初めて良いと思った、渥美清を切ないと思った。錦ちゃんは厚塗りメイクで演技もセリフもオーバーで分かりやすいんだけど、それがわざとらしく見えていたんです。でもそれは与えられたキャラクターがワンパターンで、血が通ってなかったからで、きっと本人も(こそ)嫌気がさしていたんでしょうね。だから厚塗りメイクが能面のように見ている自分を映し出して、オーバーな演技が心の中に深く突き刺さったんでしょう。映画は役者とスタッフと監督のコラボレーション!まさにそれです。雪の坂道での錦ちゃんと淳子の再会のシーン。日本映画です!☆

 

 


 

 

2017年12月29日更新

 

 

『ウンベルトD』ヴィットリオ・デ・シーカ1952

(恵比寿ガーデンシネマ4/25) 

名前だけは昔から知っていたんだけど、見たいって興味はそれほど湧かないままだったんです。Dが監督の父親のイニシャル(もちろんデ・シーカのD)だと知って、やっと興味が湧きました。年金もままならない一人暮らし。身につまされて、彼に冷たい周りもでも懸命に生きているから。だから懸命に周囲に抗い続ける老人が辛い。犬の名演技が話題だったんだけど、確かに!悪いけどどこかの電話のコマーシャルのお父さんはまだまだ。映画はモンタージュだから犬だってなんだって演技できる。でもこの犬には感情が見えた。家を追い出され、買えなくなった犬を誰かに渡そうとする老人に、でも犬は抗って逃げる。追う老人に振り向きながら一人離れていく時に汽車が‥よくある設定なのにハラハラする積み重ねが、アー監督は本気だなと。結果的にはもちろん間一髪で老人のもとへ!なんだけど、そうなるかどうか分からない流れなんだから。どこかへ歩いていくラストのその涙の中で、人に必要なのは心しか無い、そう言うつぶやきが聞こえて、救いになった。 ☆

 

『暗くなるまで待って』テレンス・ヤング1967

(池袋新文芸坐4/29

巷で噂の‥にはすぐ飛びつかないという癖があるんです。19歳の時のこれがオードリー・ヘップバーンを初体験した映画。そのドキドキ感が蘇るけど、それ以上にヘップバーンの演技って枠にはまらない、それが魅力なんだって確認したことが嬉しい。ワクワクしたストーリーはそれほどのことは無いってあれから50年の、すれた頭で受けとっても魅入ってしまう力は何を置いてもヘップバーンですよ。もう一度ヘップバーンを見直そうかと思う。(でもどれも有名だから‥やっぱりすぐには飛びつきそうも無い) ☆

 

『日本の悲劇』木下恵介昭和28年松竹

(神保町シネマ5/16

タイトルがつまらなそうで、母物はわざと涙させようとしてると偏見を持って敬遠してきたんです。望月優子って上手いけど主演作を余り知らなかったのと自分が5歳の頃の日本を知りたいという気持ちで見に行ったんです。5歳の頃の私の世界は五十銭もらって紙芝居を見るくらいの世界だったからでしょう。女手一つで子どもを育てる(家と同じ)。そのために男から男へと渡り歩く。でも息子も娘もそんな母親を疎んじて‥仕事と生き方が恥ずかしい‥(自分が20歳くらいだったら同じなのかなぁ)そのセリフがリアルで、この頃から家族のデス・コミュニケーションとか核家族化する理由とかが表現されていることを認識させられる。今だって変わらないけど、女性が生きていくのは大変なんだよなぁと、どこか冷静に見ていたつもりが、絶望した彼女がホームでじっと動かない。そのシーンの静かなこと、長いこと。音も無い引いたショットに身じろげなくなって、突然入ってくる列車に向かって走っていく姿に“えーっ!”ってなる。ギリギリまでカットしない!ってことはギリギリまで走ってる望月優子さん。「迫真の演技」って言葉が色あせるくらいすごい。このラストシーンだけで傑作になった。(それにしても望月優子の顔は私の母に似てるな) ☆